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セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(3)=ぶどうから新しい果樹へ=ピラポーラ 大河利用の農業

4月12日(土)

 パラカツから西へ三百キロ。一行はサンフランシスコ川流域の町、ピラポーラ市に到着した。川を臨むレストランで地元のスルビ料理を楽しむ。翌朝、市内から十二キロ離れた「ピラポーラ潅漑プロジェクト」の現場へ向かった。
 ミナスを縦断して東北部バイア州に注ぎ込む大河、サンフランシスコ川。この川の流域には、ジュアゼイロ、ペトロリーナなど国内有数の果樹生産地帯が広がる。川の水を利用した潅漑農業。その先駆けとなったのがピラポーラだった。
 「ピラポーラ潅漑プロジェクト」は一九七六年、政府によるサンフランシスコ川流域開発事業の第一号として始まった。潅漑面積は一千五百ヘクタール。七九年、当時のコチア産業組合が造成した営農団地に十五の日系家族が入植した。入植は続き、現在では四十八家族が果樹栽培に従事する。
 ふるさと巡りの一行はピラポーラ農業協同組合(渡辺リカルド組合長)を訪問した。同組合は九四年に二十八人の組合員で設立。ブドウを中心とする生産物は隣国アルゼンチンのほか国内各地に出荷されている。
 かつてブドウの生産で栄えたピラポーラも、近年は低迷の時期が続いている。初期入植者の一人、白石義武さん(七〇)は「最初の十年は良かった。全国から視察団が来たものです」と、その当時の隆盛ぶりを語る。
 ピラポーラの成功を受けて、サンフランシスコ川の流域全体にブドウ栽培が広がって行った。雹の被害。雨が少なく、栽培面積も大きい東北部との競争により、同地のブドウ生産は減少。レアルの下落がそれに追い打ちをかけている。
 現在では、約三百ヘクタールでブドウを栽培するほか、バナナやポンカン、柿など新しい果樹の栽培も進めている。最近になり、これまでの生食用から、種なしブドウやワイン、ジュース用のブドウ生産にも取り組もうとしている。
 潅漑設備の取水ポンプ場を見学した後、一行は南昇ピラポーラ日本人会長のバナナ畑とブドウ畑を見学。ポンカン畑で即席のポンカン狩りを楽しんだ後、市内のピラポーラ日本人会館に向かった。
 会館で歓迎の昼食会。ここにも一つの再会があった。ふるさと巡り参加者の山下重子さんと、同地の白石義武さん、博子さん夫妻。二十五年ぶりの再会に話がはずむ。
 白石さんはコチア青年。五八年に渡伯後、ブラジルのイタリアブドウ発祥の地、サンパウロ州フェーラス・バスコンセーロスでブドウ栽培を学び、七九年にピラポーラに入植した。
 山下さんの夫もコチア青年。白石さんがサンパウロ州カポン・ボニート市でブドウ栽培を営んでいるころからの知り合いだ。今回の旅行は夫人一人での参加。「帰ったら、やっぱり頑張ってたよ、と伝えたい。頑張ってもらわないとね」と、山下さんは語った。
 共に花嫁移民としてブラジルに渡ってきた山下さんと白石夫人。会場では、ふるさと巡り参加者の多川富貴子さんが、かつての花嫁の交流を呼びかけていた。ご主人を交え、十人ほどが記念写真に収まった。白石さんは「いままでこうしてやって来て、うまくいった方でしょ」と笑う。
 同地最初の入植者の一人、木下進さんは七一歳。畑は息子にまかせ、現在は牧畜をしている。サンパウロ州モジ・ダス・クルーゼス近郊での野菜栽培からピラポーラに移って来たのは四十七歳の時だ。「僕らは途中で入ってきたけど、来て悪かったとは思わない。まあ、性に合ってたんだろうね」。
 入植開始から二十四年。最初に入植した十五の日系家族のうち、今も六家族が同地で農業を営んでいる。 会場では「ふるさと」の合唱。一行は次の目的地、カルモ・ド・パラナイーバへ向かう。
(つづく・松田正生記者)

■セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(1)=美質を次世代に残したい=首都の長老の願い

■セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(2)=パラカツ、地盤築く=入植後26年 最盛期の半数60家族

■セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(3)=ぶどうから新しい果樹へ=ピラポーラ 大河利用の農業

■セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(4)=日本人が築いたコーヒー地帯=C・ド・パラナイーバ 霜害避け未知の地へ

■セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(5)=コチア参産組入植呼びかけ=サンゴタルド モデルケースに

■セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(終)=尽きぬこの旅の魅力=不毛の大地の変化、世代交代

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