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日系2世カタドールの人生=連載(下)=人の役に立つのが生きがい=苦労の日々経て自適のいま

2007年4月22日付け

 「明日あさって死んでしまう身だから、少しでも人の役に立てたら嬉しいのよ」――。カタドーラ(廃品回収)として集めた現金や日常品を、地域の住民や教会に寄付するのが老後の楽しみと語る柳下君江さんと菅原米さん。
 二人が四十年近く暮らす自宅は、廃品回収専門会社の隣の路地にあり、平屋建てのこじんまりとした佇まいだ。四畳ほどの居間にはソファと古いテレビ。廃品回収品は見当たらなく、手入れが行き届いていた。
 サントスで建設会社を共同で経営する君江さんの三人の子どもは、母親姉妹のこんな生活ぶりを反対しない。君江さんも子どもにお金を無心することはない。「子ども達はそれぞれ自分の生活がありますしね、迷惑をかけたくないです」。
 君江さんの子どもは実子ではないが「自分が生んだ子のように親孝行をしてくれる」という。今でも毎週末に実家に泊まりにやってくるそうだ。「家族の関係はいい」と姉妹は笑顔だ。
 二人はサンパウロ州ソロカバナ線サントアナスタシオ市に、五人兄弟の末子として生まれた。福岡県出身の両親は第六回移民船「若狭丸」で移住した。同地でコーヒー農園を経営していたが「貧乏暮らしが続いた」。
 二人にとって今でも心残りになっているのは、学校に十分に通えなかったことだという。「当時は自宅から一番近い学校でも四キロもあって、雨が降ったら先生がやってこない状況でね。家の手伝いもあったし、戦時中だったこともあって、結局二、三年しか学校に通っていないの」。
 米さんは大きくなってから兄がいたプルジデンテ・プルデンテ市に暮らし、そこで北海道出身の日本人一世と結婚。しかし「この夫は酒飲みで働くのが嫌な人でね、これじゃ私はだめになると思って三十年前に離婚手続きをしたの」。
 昨年、離婚調停を続けてきた夫の死亡を伝える手紙が自宅に届いた。「あっちは一人身のはずで、どこに住んでいたのかも分からない。これじゃエランサ(遺産)も受け取りに行くこともできないのよ」。
 君江さんは離婚手続き後、サンパウロ市内の裁縫工場に二十七年間勤め、十年ほど前に退職。その後知り合いから三人の末期ガン患者を紹介され、付きっきりの介護補助人として三年間働いた。「とにかく看病は大変なものだったけど、困っている人を助ける楽しみはありました」。
 姉の君江さんは三十歳の時、三人の子持ちの日本人一世と結婚した。現在のメトロ・ジャバクアラ駅近くに暮らしていたが、六九年に地下鉄一号線の工事のために立ち退きが命じられ、現在の自宅を購入した。
 「もう自分が先に死にたいくらいでした」―。住居を新たにして間もなく、同居していた夫の父親が寝たきりになった。八年に及んだ介護生活の末、養父は亡くなり、続いて夫が食道ガンで他界した。
 このとき三人の夫の連れ子はすでに高校を卒業し自立していたが、実子の息子はまだ高校生だった。「彼は昼間に働き夜間の大学を卒業してくれたの。今ではスーパーマーケットの支配人をしているのよ」。君江さんにとって、子どもの教育こそ「親のつとめ」だった。
 来年は日本移民百周年ですね―。記者がそう質問すると、驚いた様子で「知らなかった」と姉妹は目を丸くした。それでも第一回移民船、笠戸丸の名前に触れれると、笑顔で「それは知っている」と答えた。
 最近はカタドーラとして廃品回収に出かけることは減り、姉妹それぞれで自由な生活を楽しんでいる。バスに乗ってサントスにいる君江さんの子どもの家に遊びにいくこともある。
 「楽に天国にいけたらって思います。夫と義父を看病して大変だったから、死ぬなら交通事故でもいいです。人の世話になってまで生きたくないです」。君江さんに今後の人生について尋ねるとこう返ってきた。
 米さんはカタドールの仕事にふれて、「決して生活に困ってやっているわけではありませんが、こんな歳になっても世の中のためになっていると思えれば、生きがいになるんです」。
 「皆さんいろんなご心配をおかけしてすいません」―。姉妹は取材の最後に、そう手を合わせて詫びた。
 (おわり、池田泰久記者)

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