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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第106回

ニッケイ新聞 2013年6月29日

「審査結果は出次第、こちらから連絡させていただきます」
 一週間と言っていたが、五日後には結果が出ていた。融資可能という返事が電話で入った。三百万円とこれまでに蓄えた貯金を合わせれば、母親を共和国に行かせることはできる。予備校講師をしている限り銀行への返済は可能だ。しかし、共和国で暮らす家族への経済的な支援はおよそ不可能だ。
 白一家のように手広く商売をしていれば可能かもしれないが、幸代はしょせん予備校の講師でしかない。収入には当然限りがある。底なし沼に足を取られるような、そんな不安が心をよぎった。

 融和

 小宮誠一は新天地で、妻とともに新年を迎えた。日本とはまったく違う生活に自分でも戸惑いを覚える。小宮が被差別部落出身という理由で、沙織との結婚が破談に終わったのはわずか一年前。それが遠い昔のように感じられる。
 別れを告げられ、怒りに拳を握り締めたが、その一方でブラジルに一緒に移住してくれるのではと心密かに期待していた。しかし、沙織は小宮のそんな思いも一蹴した。憎悪に満ちた思いでサンパウロにやってきた。数ヶ月前の顔は険しく刺々しい表情をしていたと自分でも思う。
 叫子と出会い結婚してからは、サンパウロ市内のホンダのディーラーでブラジル人に与える印象も変わったようだ。市内にはバイクのディーラーが次々に誕生し、修理してほしいとバイクをディーラーに持ち込む客は多かった。
 小宮が働いているのはそうしたディーラーの中枢に位置づけられ、日本からの進出企業の多くがオフィスを構えるパウリスタ大通りと交差するブリガデイロ・ルイス・アントニオ通りにあった。そこにはマナウスで生産されるバイクだけではなく、ホンダのすべてのバイクが展示されていた。
 竹沢所長の役目はすべてのディーラーに整備士を配置することだった。ブラジル人を一人前の整備士に育てることが小宮の仕事だった。
 毎朝出社すると、会社の駐車場に車を止めて、オートバイが展示されているオフィスの裏手にある修理工場に入る。次々に整備士も通勤してくる。見習い整備士の給料は最低給料の二倍程度、日本円に換算すると二、三千円くらいだ。自分のバイクや車を持つことが当面の彼らの夢なのだ。
 サンパウロ市内のアパートで暮らすには、その給与では無理だ。彼らの多くは一時間から二時間かけてバスで通勤してくる。工場の片隅に設けられた更衣室でブルーのツナギ服に着替え、展示会場のオフィスに全員集合し、竹沢所長から訓示があり、その後、自分の持ち場につく。
 見習い整備士たちは「コミヤ」と発音しにくいのか、小宮を「シェッフェ・ネルボーゾ」と呼んでいた。訳せば「神経質な主任」ということになる。それが数ヶ月で「シェッフェ・シンパチコ(感じのいい主任)」に変わった。何も知らないブラジル人の目にも、サンパウロに着いたばかりの小宮は、気難しい人間に見えたのだろう。
 小宮がポルトガル語を話すようになると、見習い整備士は次々に小宮に質問をするようになったし、持ち込まれたオートバイの整備が難しい時は、小宮が担当した。何も言わなくても周囲に集まり、小宮の整備のやり方を見ていた。わからないところがあると、その場ですぐに彼らは質問をしてきた。
 販売、事務、部品管理、整備のセクションに分かれ、コーヒーだけはいつでも飲めるように近くのバールと契約し、大きなポットが各セクションに置かれ、午前と午後に新しいコーヒーが運ばれてくる。
「シェッフェッ、トマ・カフェ」
 休憩時間になると、文盲撲滅のための夜間学校モブラールを紹介してくれたパウロが声をかけてくる。パウロが冗談でモブラールを教えてくれなければ、小宮は叫子と出会うことはなかった。竹沢所長はパウロのいい加減な仕事ぶりを批判するが、しかし、整備の現場ではいつも冗談をいいながらも先頭に立って修理を始めるのはパウロだった。(つづく)


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