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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第122回

ニッケイ新聞 2013年7月24日

「日本で記事が出るとなると、家族が読む可能性が出てくるので……」いつもの小宮らしからぬ歯切れの悪い返事だ。
 しかし、すぐにいつもの小宮に戻り、意を決したように言った。
「児玉さんの取材はお受けしたいと思います。でも、少し時間をいただけますか。私たちがホントに揺るぎない幸福な生活を築くまで待ってほしいんです」
「どういうことでしょうか」児玉が聞き返した。
「私は過去と決別するために移住してきたとお話ししたのを覚えていますか」
 児玉は頷いた。飛行機の中で小宮が言った言葉は脳裏に焼きついたままだ。
「叫子も同じ思いでブラジルに移住して来たんです」小宮が言った。「何故、私が移住してのきたのかを説明します。でもこれは絶対に秘密にしておいてください」
 小宮はコップのビールを一気に飲みほし、喉を潤すと自分の出身地から生い立ち、移住を決意するまでの経緯を説明した。
 小宮は叫子の手を握り、叫子も小宮の手を握り返している。小宮は淡々とした口調だが、夫の話に耳を傾ける叫子の目から涙が流れ落ちた。きっと叫子にも同じような体験があるのだろう。
「故郷の家族には、いずれサンパウロで暮らしていることは知らせます。ただ、児玉さんには私たちがブラジルで確固たる生活を築いたら、すべての事実を書いてほしいんです」小宮が言った。
「それは私も同じ。母親がどんな人なのか、生きているのかもわかりません。ただ私がブラジルに移住し、幸福に暮らしていることは母にも知ってほしいし、日本にいるサンダースホームの仲間にも知らせたい」
 小宮の話を聞きながら、胸が熱くなるのを覚えた。
「わかりました。幸せになってくださいね。その時には是非、私に記事を書かせてください」
 児玉は二人に向かって言った。小宮と叫子は必ずぬくもりのある家庭を築くだろうと児玉は思った。

 ナモラーダ

 ボアッチの女に入れ込むどころか同棲までしているという情報は、パウリスタ新聞編集部だけではなく広告営業部にまで流れていた。
 しかし、一年も経過した頃から地方を回る広告営業部のスタッフから昼食に誘われたり、午後になり新聞のバックナンバーを広げていると、「相談がある」と話しかけられたりするようになった。
 広告営業部のスタッフは、サンパウロ州はもとよりパラナ州からマット・グロッソ州、ミナス・ジェライス州、アマゾン流域のパラー州にまで足を運び、成功した農場主から広告を集めてきた。四国と同じ広さのコーヒー園を所有する日系人や、野菜、果樹、畜産で成功した移民や日系人がブラジル全土に散在していた。そうした成功者からの広告がパウリスタ新聞の大きな収入源でもあった。
 一九七〇年代、日本からの進出してきた日系の企業も多かったが、邦字新聞へ広告を掲載しても経済的効果は少ないと判断し、付き合い程度の広告しか掲載されなかった。
 広告部の中野に昼食を誘われ、児玉はパウリスタ新聞の二軒隣のビル一階にあるバールで一緒に食事をすることにした。パウリスタ新聞周辺のバールには昼食時になると、周辺のアパートに住む街娼も食事にやってくる。
 年齢的にはトレメ・トレメで暮らしている女性よりも年上で、四十代が多かった。彼女たちは食事をしながら、真っ昼間から客を探しているのだ。彼女たちを抱くのは、最低給料の労働者たちで、その中にはパウリスタ新聞の印刷工もいた。
 彼らは新聞を印刷する紙のロールをトイレットペーパーのように十センチほど引きちぎると、それで手に付着しているインクをふき取りバールに向かった。街娼と一緒に食事をしながら、値段の交渉をする。彼女たちに支払われるのは日本円に換算すると、せいぜい二、三百円程度だが商談が成立すると、彼女たちの部屋でセックスをし、昼寝をしてから午後の仕事についた。(つづく)


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