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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第125回

ニッケイ新聞 2013年7月27日

「終戦直後はそうかもしれませんが、今の経営状況は園山社長が無能なだけでしょう」
 園山は二世で、極貧の子供時代を送ったと言われていた。自分の給料だけは真っ先に中村の後ろにある金庫から持ち出していると囁かれていた。園山社長を詰る児玉に、神林は黙り込んでしまった。軍政のブラジルでは経営者批判は共産主義者と思われるし、労働組合をつくろうなどと言おうものなら、治安警察に逮捕されかねなかった。
 ハイパーインフレは児玉の想像をはるかに超えていた。スーパーマーケットの品物は二、三日おきに値上がりした。ラベルの上にラベルが貼られた。しまいには毎日値上がりするので、店員にもいくらで売ればいいのかわからないほどだった。
 最後は合計金額をレジスターで計算し、合計金額を毎日更新されるタベーラ(表)を客に見せて、換算額を客からもらっていた。そのタベーラも午前と午後では変わった。
 週末はますます日本向けの原稿のために取材をしなければならなくなった。テレーザに会いに行く機会は月に一回程度、あとは取材に費やした。そうしなければ生活が成り立たなかった。必然的にマリーナと会っている時間は長くなっていった。
 日本での原稿料はブラジルのインフレが進めば進むほど、ブラジル通貨との両替は有利になり、児玉はそれまで以上に日本の雑誌に原稿を売り込むようになった。
 ブラジルの対外債務は膨れ上がり、その返済に困り果て国家経済は破綻寸前だった。給料は遅配どころか支払いが完全に滞った。
 朝から汗だくになるような日差しで、児玉は汗を拭きながら自分の机に着き、新聞を広げた。酒を飲む機会は減り、その量も少なかった。肝臓のデータにも問題ないと援護協会の医師から診断されていた。
 しかし、その日は明らかに視力に異変が生じていた。新聞の文字が赤く見えたのだ。正確にはえんじ色だった。児玉は疲れのせいかと思い、編集部入口の机に置かれているコーヒーポットからいつもより多めにカップに注いで、席に戻った。コーヒーを飲み、もう一度新聞に目をやった。やはりえんじ色に見えた。
 児玉より少し遅れてやってきた中田編集長、前山主幹の二人は、席に着くなり眼鏡を外し、レンズを拭いた。
「なんだ、この色は……」中田編集長が声を荒げた。
「ヴォッセ(お前)にも赤く見えるか」前山主幹が中田の顔を見て言った。
「藤沢工場長を呼べ」
 中田が怒鳴ったのが聞こえたかのように、藤沢が編集室にやってきた。
「工場長、この色はなんだ」中田の声はさらに尖ったものに変わっていた。
「園山社長は夕方にはインクは届くと言って、さっさと帰宅してしまった。いくら待ってもインクは配達されてこなかった。インク会社への支払いが滞っていると中村さんが言ってたよ。サンパウロ新聞からインクを借りようと思って電話をしたが、すでに責任者は帰っていて埒があかなかった。それで……」
「それでどうしたっていうんだ」中田は喧嘩を売っているような口調だ。
「工場に残っていたのは黒いインクが少しと赤いインクが一缶まるまる残っていたので、それを混ぜて使ったらあんな色になってしまった」
 中田編集長は怒りがさらに増幅したのか、「社長は出社しているのか」と怒鳴り、社長室に向かった。
 児玉は自分の目に異常がなかったことがわかると、急に笑いがこみあげてきた。藤沢工場長が黒いインクと赤いインクをヘラで混ぜているところを想像しただけで、自然に唇に笑みが浮かんでしまう。
 中田はすぐに戻ってきて、「あのヤロー、まだ来ていない」と一人呟いた。
「うちはサンパウロ新聞の美津濃社長からどれくらいインクを融通してもらっているんだ?」中田が藤沢を睨みつけながら尋ねた。(つづく)


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