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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第21回

ニッケイ新聞 2013年2月26日

 児玉はテレーザが本気で言っているとは思っていなかった。
「ああ」
「コダマなら、そう言ってくれると思った」
 翌朝、トニーニョが寝室に入ってきた。二人はまだベッドの中でまどろんでいた。テレーザは児玉の腕の中で抱かれるように寝ていた。
「ママ、だれ、その人」
「ボンジア(おはよう)。この人はママの恋人よ」
 トニーニョは一瞬、怪訝な顔をしたが、それほど驚いたようすもなく、「カフェの用意ができたって」と言った。
「わかった」
 テレーザに起こされて児玉も目を覚ました。シャワーを浴びてキッチンへ行くとテレーザはトニーニョと一緒に食事をしていた。児玉がテーブルにつくと、ヴェラがコーヒーを注いでくれた。焼きたてのまだ温かいパンがテーブルにのっていた。朝の四時ともなると、サンパウロのほとんどのパダリア(パン屋)が開く。ポルトガル系の職人が焼くパン屋には人気が集まって、その近くの住人がそのパンを求めて、開店と同時にお手伝いを買いにやらせる。
 移民の国ブラジルでは、それぞれの移民が各国独自の技術を生かして経済的な成功を収めていた。日本移民は米や野菜作りに関しては他の移民の追随を許さなかった。ドイツ移民はブドウ栽培に力を発揮し、ワイン、ビールの製造には他の移民を寄せ付けなかった。イタリア移民は産業革命によって職を奪われた織物などの職工が移住して来たために、衣類、織物関係への進出が著しかった。
 温かいパンに熱いコーヒー、ブラジルに来て初めて味わう家庭の味だった。食事が終わると、ヴェラに連れられてトニーニョは保育園に行った。児玉も新聞社に出社しなければならない時間だった。
「俺も会社に行かなければ」
「うん、わかった」
 テレーザがドアの所まで送って来た。
「チャオ(さよなら)」
 児玉はブラジル人がするようにテレーザにキスをした。
「チャオ」
 テレーザもこう言いながら、児玉にキーを渡した。
「この部屋の鍵よ、ナモラード」
 児玉は何も言わずにそれを受けとった。その日以来、週末はテレーザのアパートで過ごすことが多くなったが、児玉はミッシェルに通うことを止めたわけではなかった。日本から持って来た金はほとんど飲み代に消え、ドルの所持金はほとんど底を突いていた。
 テレーザも以前と同じようにミッシェルで客を取っていた。ただ児玉がミッシェルに顔を見せた夜は、そのまま彼女の家に直行した。週末はほとんど彼女のアパートで過ごし、時には彼女の車でサントスに遊びに行くこともあった。サントスまでは約百キロ、海岸沿いのレストランで食事をして、サンパウロに戻ってくる。そうした金はすべてテレーザが支払っていた。
 テレーザは児玉に鍵を渡す前もそうだったが、金を要求することはなかった。児玉もその点はわきまえていて一銭も渡さない時もあったが、給料をもらった日などはその半分を彼女に渡した。彼女が体を売って得ている金で、食事をご馳走になり、ドライブを楽しんでいるかと思うと気が引けた。
 テレーザも児玉と付き合っているうちに、新聞社の給料が低いことを知った。飲み代は日本からの所持金だったことを知ると、ミッシェルに来ないように注意した。
「児玉が来る夜は、店に出ないようにするわ」
 しかし、それは彼女の収入が減ることを意味していた。日本から持って来たカメラやテープレコーダー、ラジカセは中古でもいい金で売れた。特にカメラなどは高級品で、児玉の年収に相当する金で売れた。


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