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自分史を手に永山さんと妻てるさん
自分史を手に永山さんと妻てるさん

コチア青年=永山八郎さん自分史刊行=ブラジル人相手の日本食店の先駆け=「この本を鑑として生きて」

 「あなたたちが、末代まで、苦しい時も嬉しい時も、この本を鑑としてくれるよう望みます」――コチア青年連絡協議会元会長、福島県人会長の永山八郎さん(80、福島県いわき市)は5月24日昼、サンパウロ州クアドラ市の別荘に親族・友人ら約50人を呼び、自分史『遥かなる旅路』(162頁、全カラー)の刊行パーティを行い、子孫らにそう呼びかけた。永山家は団結して日本食レストラン「永山」をサンパウロ市に7軒、リオにも支店を出して計8軒も展開している。

大成さん、勝浩さん、真由美さん、礼子さん

大成さん、勝浩さん、真由美さん、礼子さん

 1988年8月にイタイン・ビビ区に4テーブルの小さな店舗から始め、現在では合計約1千席もの規模に達した。創立時、日本食店はほぼ東洋街に集中している時代で、日系人向けが大半。「永山」は最初からブラジル人客を相手に考えた先駆けだったという。
 82年から2年間、次男・大成(だいせい)マリオさんは米国マイアミの日本食レストラン「ヒロ」に修行に行き、帰伯後に第1号店を開いていた。永山家は約30年間、バイーア州テイシェイラ・デ・フレイタスで大農場を経営していたが、折からのハイパーインフレや農政変更などに苦しみ徐々に農地を売って、サンパウロ市での飲食業に乗り換え、家族全員で現在の基礎を築いた。
 大成さんは「最初は東洋街に作ろうと思ったが、競争が激しいし、考えを変えた。マイアミの店にはアメリカ人が沢山来ていたから、いずれブラジルも同じようになると確信していた。でもブラジル人は当時、生魚に抵抗があったので、最初のメニューは生姜焼き定食、チキン照り焼き定食などを昼食で出す、シンプルなものだった。当時は輸入ものの生魚はなかったから、国産魚を週一回だけ刺身でだした。今のように寿司、刺身中心になったのは、米国の影響で生食が広まった後」と振りかえった。
 永山さんは「一番大変だったのは、93年頃にコレラが流行って生食禁止令まで出て、1カ月間ぐらい誰も客が来なかったときかな」と思い出す。
 7年前にこの別荘(シッチオ・ソーニョ・コロリード)を買い、5年前には家族用のゴルフ場(9ホール)まで作った。そこで練習を重ねた孫ペドロさん(18、三世)が先日、チリで開催された世界選手権で好成績を上げ、ブラジル代表として日本大会に出場することが決まったばかり。
 糟糠の妻てるさんとサントスに上陸したのは1959年。以来、子供4人(勝浩アントニオ、大成マリオ、礼子セシリア、真由美)、孫は10人を数える。コチア青年仲間の高橋一水さんは、「コチア青年2500人の中でもトップにはいる成功者。永山家三世代が団結してこのようなフェスタをすることは素晴らしい」と挨拶した。
 大成さんは「日本食は普遍的料理だと思う。リオには2年前に出店しうまくいった。他の町にも。いつかは僕の原点マイアミに店を出すのが夢」と語った。長男の勝浩さんも「両親が勇気をもってブラジルきたおかげで現在がある。両親をとても誇りに思っている。父の人生に学び、それをなぞれるよう、この本を参考に努力したい」としみじみ語った。


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 サンパウロ市から西南に約180キロ、クアドラ市にある永山さんの別荘は敷地が55ヘクタールで、家族用ゴルフ場以外に、貴重な原生林が17ヘクタールも残されている。森を横切る散策路も作られ、自然観察が好きな人には堪えられない。1960年からすぐ隣のタツイ市に住み、この物件を永山さんに紹介した徳吉義男さん(79、鹿児島)も「この辺じゃ原生林が残っているのはほとんどない。貴重な森だよ」と太鼓判を捺す。日本語学校や日系団体のピクニックにも開放したら喜ばれるかも。

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