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移民と共に歩む在聖総領事館=一世紀前の設立経緯追う=初代総領事と平野植民地の絆

 ブラジルの日本国在外公館は、その歴史の最初から移民と共にあった。人文研年表には《1914年8月2日アウグスタ街297番でサンパウロ総領事館が事務を開始する》とあるが、史料を見ると、実はサンパウロにありながら「リオ総領事館」だった。一世紀前の設立経緯、そして最初の邦人自作農集団地の一つ、平野植民地との絆を探ってみた。

1920年6、7月当時の在サンパウロ総領事館の天長節祝賀会の写真。中央の正装姿が公使館の書記官で、日本一の南米通といわれた野田領事。同年9月には藤田敏郎氏が総領事として赴任(『南米日本人写真帳』永田稠、日本力行会、1921年)

1920年6、7月当時の在サンパウロ総領事館の天長節祝賀会の写真。中央の正装姿が公使館の書記官で、日本一の南米通といわれた野田領事。同年9月には藤田敏郎氏が総領事として赴任(『南米日本人写真帳』永田稠、日本力行会、1921年)


 ちなみにブラジル最初の日本国総領事館は、公使館と同時に設立された。1897年8月23日で、ペトロポリスの公使館内に併置され、珍田捨己公使が総領事を兼任した。これは日伯修好通商条約(1895年11月)の2年後だ。つまり国交こそ開いたが、具体的な懸案がないまま2年が過ぎ、急きょ公使館と総領事館を同時に設立した。
 これは、〃幻のブラジル移民船〃土佐丸が1500人を載せて1897年8月15日に出港予定だったためだ。しかし、ブラジル側から突然キャンセルを言い渡された。その受け入れ準備に総領事館が設置されていたが、移民の予定は白紙に。以来、しばらくは外務省にとってブラジルは鬼門ともいえる地になった。
 しかし1905年6月に杉村濬公使が「ブラジル有望」とする報告書を本省に挙げ、これを見た水野龍が第1回移民船「笠戸丸」を運行させ、1908年6月18日にサントス港に到着し、潮目が変わった。
 『物故者列伝』(日本移民50年祭委員会、1958年)の《松村貞雄》項によれば、初代サンパウロ総領事は明治政府発足とほぼ同じ1868年9月6日に高知市に生まれ、ドイツ語を習って1897年に外務省入り。上海勤務を振り出しに、1913年9月に当地に一等書記官として着任。そのすぐ後、総領事を兼任するようになった。1912年には移民船2隻、翌13年には4隻が到着し、受け入れ人数が1万人を超えたからだ。
 しかも、その13年11月からは最初の日本人植民地であるイグアッペの「桂」に30家族が入植を開始し、日本移民の定住への道へ第一歩を踏み出していた。


開設時は「リオ総領事館」だった謎

 このような移民を扱う領事業務の増加を見込んでの総領事館設置であった。しかし、リオからは遠すぎ、総領事館のサンパウロ移転を上申していたが、予算の関係から延ばされていた。そこへサンパウロ州政府が、14年になって日本移民誘入契約を破棄するなど情勢が悪化したため、総領事館移転は喫緊となり、臨時の処置として松村総領事を「永続出張」させる形で定駐させた。
 14年8月1日にサンパウロ市出張、翌2日に「在リオデジャネイロ帝国総領事館」として事務所を開設したのが最初だった。1915年7月14日に正式な「サンパウロ総領事館」が開設され、前者は閉鎖。松村総領事が初代館長に就任した。
 「リオ総領事館」はこの時、一旦閉鎖されたが、移民増加するにしたがい、在聖総領事館だけで全伯の領事業務を遂行すること適当でなくなり、後に再開設された。


平野植民地建設の後ろ盾

戦前、ブリガデイロ・ルイス・アントニオ街にあったサンパウロ総領事館の様子(『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、竹下写真館)

戦前、ブリガデイロ・ルイス・アントニオ街にあったサンパウロ総領事館の様子(『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、竹下写真館)

 当時の日本移民は、農園主からの搾取が酷いコロノ生活に苦しんでいた。それに心を痛めていた松村総領事が目を付けたのがグアタパラ耕地で副支配人をしていた平野運平氏だった。総領事館に招き、「未開の地ノロエステを日本人の手で開拓し、植民地を経営してくれ」と意気投合した。
 1915年8月3日に開拓が着手された邦人の大土地所有、自作農集団地の先駆け「平野植民地」は、奇しくも今年8月2日にその百周年を祝った。最初の1年間でマラリアにより80人近くを人柱にした経験は、移民史に残る警鐘となった。松村総領事は戸田善雄医師を派遣し、医療品を送った。その戸田医師の妻もマラリアに斃れ、土地代の残金も払えない状況になると、松村総領事は財布の底をはたいて8コント(4千円)を送って急場をしのがせた。
 ノロエステはこの後、松村・平野コンビが目した通り〃邦人活躍の新天地〃となった。
 松村総領事の在任期間は6年間で、1919年7月に帰朝した。同年2月6日に盟友・平野運平は無くなった。享年はわずか34だった。松村氏は1922年8月、兼任朝鮮総督府事務官(二級)となったが、翌23年2月25日に逝去した。
 1934年に平野植民地が開拓20周年記念祭を行うに当り、松村総領事が平野氏に貸した8コントの旧債を返済すべく、植民者一同で10コントを集め、在日本の松村菊子未亡人に送ろうとした。しかし、未亡人は「それは故人の遺志に非れば、植民地のために有意義に御使用ありたし」と返信し、植民者は感激の涙を新らたにした。

総領事館内の様子と垣根準三総領事(『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、竹下写真館)

総領事館内の様子と垣根準三総領事(『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、竹下写真館)

 その記念として植民者は改めてブラジル名産の瑠璃石を贈り、「松村奨学基金」を設けて、松村氏の美徳を永久に顕彰することにした。
 『物故者列伝』には、《短嘔ながら太ッ腹で、人間性に富んだ松村総領事は、初期の移民達のいい話し相手として親しまれ、よき後ろ楯として邦人発展の推進力となった。古い移民達(ブラジルではマカコベーリヨ「老猿」といわれている)は異口同音に「松村総領事はえらかった。歴代の総領事中、松村さん以上の人物はいませんな」とその徳を讃えている位である》と書かれている。

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