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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(4)

サンパウロの移民収容所、ずらりと2段ベッドが並ぶ様子(『南米写真帳』)1921年、永田稠著、発行=東京・日本力行会)

サンパウロの移民収容所、ずらりと2段ベッドが並ぶ様子(『南米写真帳』)1921年、永田稠著、発行=東京・日本力行会)

 この移民収容所は一八八七年に創設されたもので、一世紀にわたって六〇カ国余から移住者を受け入れてきた。もともと、移住者は奴隷の代わりに労働者として受け入れられていた。ところが、奴隷解放を謳った「アウレア法」が施行されると、奴隷は使用人になり、農場主は給金を支払わなければいけなくなった。その対策として移住受け入れが盛んになるのだが、
 しかし、農場主は奴隷制度以上に過酷な方法を編み出した。移住者が雇用主にしばられるような、たとえば農場などでは耕地内の売店でツケで買い物をするのだが、市価よりも何割も高く、雇い主に借金しつづけるように仕組まれた制度であった。初期の日本移民はこのため、ずいぶん苦しめられている。
 移民収容所は、最初の移住船「笠戸丸」が一九〇八年に着く二年前から、日本の国民を受け入れる準備を始めていた。
 皇国殖民会社の社長である水野龍は、何度も収容所を訪れ、奥地に配耕されていく移民のために通訳を要請していた。皇国殖民会社の最初の通訳に選ばれたのは、まだ二〇代の五人の学生で、しかも、大学で学んだのはスペイン語で、ポルトガル語がわかるかどうか、疑わしい人たちだった。
 彼らは三等に乗船し、船はバイア港を経てサントスに入港した。この時からスペイン語、ポルトガル語それに英語まで取り混ぜた言葉が、ブラジルの役人と日本移民の間で取り交わされるようになった。
 「笠戸丸」に乗って、下船した七九一人のうち、わずか一〇人ほどが自由渡航者であった。
 最初は、ほとんど沖縄や鹿児島からの移住者だった。通訳の一人である二七歳の平野運平は、鹿児島からの移住者二十三人を連れてグアタパラ農場へと向かった。
 当時、グアタパラまでの旅は一日がかりだった。農場には二〇〇万本以上のコーヒーが植えられていて、日本人の度肝を抜いた。何十列とつづくコーヒーの樹々。
 日本の小さな畑しかしらない人々にとって、目の届く限りつづくコーヒーの波は、一種の脅威として映った。気が遠くなるように延々とつづくコーヒーの樹の手入れに、どのくらいの労力を要するか見当もつかなかった。
 通訳の役目は、農園の監督官が命じることを、移住者たちに伝えることだったが、ずいぶん多くの命令があった。というのも、農園に配耕された移民たちは便所も自分たちで穴を掘り、その辺の木で小さな小屋を組み立てなければならなかったから、共同生活を余儀なくされたのである。
 また、ラードが主の脂っこい食べ物に日本人は、拒絶反応を示しながら、空腹が増すと少しずつ食べるようになっていた。最初の何日間は、地域の風土に慣れるためにも農園主は労働者に食事を作って与えた。
 しかし、すぐ農場内にある店で生活用品を調達するように命じられ、店で調達した品々はノートに書き込まれ、家族の借金として記されていった。移住者たちは畑仕事用の鍬、篩い、鉈までもその店買わなければならなかった。買い物の費用は各家族が月末に受け取る予定の給金から少しずつ差し引かれていったが、借金を返すために農場で働いているようなものであった。
 「笠戸丸」以来多くの移住者が最初の雇用主から逃れて、夜逃げ同然に近辺の雇用条件が多少良いところに移っていったのだが、そんな農園が見つからないものは汽車に乗り、サンパウロ市内のルス駅で下車し、コンデ・デ・サルゼーダス街へと向かった。サンパウロ市の中心地からそう離れていないその通りには、安く泊まれる家が点在していた。たいてい、物置のような地下室ではあったが。
 そこで何日か過ごし、異国の地で生活の糧を得るために何をするのか模索したのだ。このように、行く所もなく、見通しもたたない人々が寄り集ったところから、のちに日本人街と呼ばれるリベルダーテ区が誕生したのである。
 このような生活用品や農作業用の器具を高く売りつけ、借金で移住者をがんじがらめにする農園主側の不実な行為は、その後もずっと、移住制度がつづく間つづけられた。五〇~六〇年代の報告書をよむと、移住者は常に借金を返すために働きつづけなければいけないということを告げられて、びっくり仰天していたことが分かる。

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