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日本移民110年祭記念感想文=「力いっぱいやった」=この地に生きて60年=日本や地方からサンパウロへ=サンパウロ市在住 駒形 秀雄

豊作だったトマトを収穫するコチア青年夫婦(『コチア青年―妻と歩んだこの道―』、コチア青年連絡協議会、2011年)

豊作だったトマトを収穫するコチア青年夫婦(『コチア青年―妻と歩んだこの道―』、コチア青年連絡協議会、2011年)

 7月下旬、移民110年式典・日本祭りも成功裡に終わり、ブラジル在住日系人もホッと一息というところでしょう。
 110年式典はその規模、運営とも大変立派なもので、海軍軍楽隊を捲き込んだ演出は、ブラジルと日系社会の一体感を形にして見せてくれました。また、沖縄系の太鼓隊や伝統の阿波踊りまでブラジル風のリズムにアレンジされて観客の感覚にピッタリ、万雷の拍手でした。20万人を超す動員数と共に日系社会のパワーを誇示して、日本祭りは大成功でしたね。
 この大行事の企画、運営は祭典実行委員会、県連などが行いましたが、その中心となった担い手は (A)戦後日本から移住した日本人、(B)戦後地方の農村地帯から大サンパウロ都市圏に移って来た日本人子弟(二世、三世)から構成されていました。
 これら大サンパウロ都市圏への移転組にとっては、名目は移民110年記念であっても、実は自分達の移転60周年をしのぶ記念の行事であったと言えます。
 会場でいろいろな人と話し、興味深い感想をたくさん聞きましたので、ここに紹介したいと思います。皆さんは110周年式典という機会に、それぞれに感慨深い想いを抱いていたようです。
「この地に移り住んでから60年にもなる。長い間良く働いた。俺達は苦しい環境の中で、力一杯生きて来たぞ。それで今この目出度い祭典なんだ。同志と共に祝おう」。多くの人の胸の中はそんな感慨が去来し、この日を迎えた満足感で満たされました。

力一杯生きて来た

 しかし、現在のこのやすらぎ、お祝いの境地は何の苦労もなくやって来たものではありません。口では言い尽くせない様な困難や、それを乗り越えて来た努力の積み重ねによって、得られたものなのです。

「あなた、がんばろうね」と言い合いながら畑を耕す若夫婦(同)

「あなた、がんばろうね」と言い合いながら畑を耕す若夫婦(同)

 ブラジルへ来て多くの人たちはまず農業に従事しました。それも初めの間はカマラーダ(雇用労働者)としての仕事でしたから、今で言う、キツイ、キタナイの作業が多く苦しい思いをしました。その中で辛抱し、初志を貫徹して後に大きな農家になった人もあり、又、大規模な養鶏場主になったりした人もあります。
 他方、別の人たちは「これは俺が考えてきた生活とは違うぞ」と小規模農家の生活に見切りをつけ、1960年代、大サンパウロ都市圏などに出て来ました。サンパウロは何か活気に溢れ、お金が動いている様に感じられたからです。
 そして、手っ取り早いフェイラ(露天市場)や、セアザ(青果卸売り市場)に職を求めました。
「新しい土地で成功してみせるぞ―と言って故郷を出て来たんだ。頭も使い、体も使い、全力で目的達成にガンバルぞ」と決めて、その業務をマスター、後には家族の協力も得てやがてその事業のオーナーとなって行きました。
 そして老境に入った今、仕事からは離れたが、他の人に迷惑も掛けない、一市民としてのやすらぎの環境を得ているのです。
「俺は、よく話題にされた様な大農場主にも大金持ちにもならなかったが、自分の力を信じ、やりたいようにやって来た。これまで、真面目に力一杯生きて来たことに満足している。無理して大金を手に入れても墓場まで持って行ける訳でもない。まあ、人生、こんなもんじゃないのか」。そう会場で誇らしそうに言う佐藤某さんの頭には、白髪が目立っていました。

花も嵐も超えたひと

 さて、女性の場合、過ぎた60年はどうだったのでしょう。大部分の人は結婚してパートナー(夫)が居た訳ですが、それでもただ家で留守番をしていた訳ではありません。小売の店とか洗濯店を夫と共に、或いは夫以上に働いて家を盛り立てていったのです。
「うちのダンナはね、仲間を集めてピンガを飲み、大きなことを言っていたけど、内実は店のこと、家のこと、私が中心になってやっていたのよ。子供が小さい時なんか、ほんとに寝る暇も無いくらいでした。お金もないのに良くもやって来れたもんだと今は思うわね」でした。
 でも飲んべーでも相棒(夫)が居た人は未だ良い。まだ早い段階で夫に去られ、「ダンナは居ない。親戚は居ても他人を援けられるゆとり(お金)はない。小さな子供を抱えてお先真っ暗、本当に途方に暮れました」。
 でもそういう人でも縫い物(COSTURA)で仕事が出来たというのです。「衣裳の一寸した手直し、他の人の下請け仕事から始め、そのうち直接新しい服の仕立てもするようになり、お客が増えると共に手伝いの人を雇ったりもしました」「そうして子供を立派に育て上げ、この家も手に入れることが出来たのです」。今は孫たちに囲まれて幸せそうな老婦人のお話でした。
 80歳を超したブラジル生まれのよねさんは今、娘さんと二人暮らしです。「TVで見ると日本って大変な国なのね。大地震があったと思ったら、今度は大型台風に水害でしょ。立派な家が流されて本当にお気の毒ですね」。この地の花は嵐に耐えて、今鮮やかに咲いているのです。

こりゃ良いとこへ来たもんだ

 若くして親の援護もなしに世間の荒波に直面した「戦士達」も、今は「切った張った」の第一線を退き、後期高齢者です。
 その親たちの努力の甲斐もあって十分な教育を受けた子供達は、それぞれ独立してブラジル人として立派な家庭を営んでいます。子供たちには別に「親孝行しろ」など言ったことはないのですが、爺ちゃん、婆ちゃんにとても良くしてくれるのです。子供達はやっぱり苦労して生活を経てて来た「親の背中」を見て来たからこうなったのか、と神様に感謝する心境です。

日本移民110周年で歌手の平田ジョエさんが披露した記念曲「ありがとうブラジル」

日本移民110周年で歌手の平田ジョエさんが披露した記念曲「ありがとうブラジル」

 セアザで働いて来て、今は高級住宅地に住む村松さん。先日、110年式典に来た母県からの偉い方を自宅に招き、現地事情を説明していました。「ブラジルは良い所ですよ。今ブラジルは冬なんですが、ここでは寒くても15度くらいです。夏は日陰に入れば30度を超すことはそう多くなく、快適です。私の家には暖房も冷房もありませんが、その必要もないのです。ここは本当に良い所ですよ」。
 今度は調査が得意の柿花さんが資料(別表)を持ち出して説明を始めました。「私達がここへ移って来た1950年代から大サンパウロ都市圏へ人の流入が続き、2010年までの60年間で、人口が6・65倍にも増えています。ですから私達がサンパウロで住み始めたころは言葉は十分に話せなくとも、物が有れば売れたのです。半分素人でもその気さえあれば、お金を稼ぐことが出来たんですね。経済成長率でも、1971年―80年で8・6%のプラスを記録しています。この間まで土いじりをしていた日系人の店が沢山できましたね」。
 ここまで聞いていた山川さんが思わず大きな声を出しました。
「いやー、俺達こりゃー良いとこへ来たもんだ。成る程、ブラジル人が『おー、ジャポネース、あまり心配するな。何かと問題があっても、この世の中、何とかなるさ』と楽天なことを言ってる訳が分かるね」と。

海外雄飛の我が子弟

眞子さまご臨席のもとに行なわれた芸能ショー

眞子さまご臨席のもとに行なわれた芸能ショー

 私たち老人仲間が雑談していると「いや、うちの息子は日本に居ついてしまってね。日本に持ち家もある、子供(孫)も居る。もうブラジルには帰らないと言っているよ」「私のところは娘がアメリカに居ます。大学の先生をしているので、やはりブラジルには帰らない、と言っています」。
 「私も」「ウチも」と、そういう話が多いのです。聞いて見ると移転先としては日本、米国をはじめ、カナダ、オーストラリア、ヨーロッパ諸国と様々ですが、ブラジルよりも生活水準が高い国で、それなりのよい職業に就いているのです。
 ブラジルで育って色々な人種や文化を身近に見てきたとか、言葉の点で抵抗感が少ないとか色々理由は考えられますが、年老いた親としては折角育てた子に去られたようで淋しい気にもなります。
 しかし、そう思う自分の方も、若いときに、親孝行もせずに日本を飛び出して来たのですから、子供の選択に苦情も言えないな、という感じです。
「僕達の先輩が『海外雄飛』と言ってブラジルに来たんだが、その志を今、僕らの息子や娘が世界に向けて実現している。平和の裡に日本民族の世界的発展を実現しているんだ。どうだ、凄いよね!」。

日本から来た県庁幹部に、現地事情を説明する県人会幹部

日本から来た県庁幹部に、現地事情を説明する県人会幹部

 これは自分の娘夫婦がオセアニアに住むと言う、大和田さんの言葉です。
 何事も整ってなかった新天地に飛び込んで60年、力一杯やってきて今日、盛大に記念祭を催した人達の生き様でした。〈完〉―(ご意見、感想はこちらへ = hhkomagata@gmail.com)

 

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