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セアーザ今昔物語=ほとんど全員日本人だった=(1)=ブラジル人も日本語で交渉

トマトが入った20キロの箱を軽々持ち上げる元気な新垣さん

トマトが入った20キロの箱を軽々持ち上げる元気な新垣さん

 1966年にサンパウロ市ビラ・レオポルヂーナ区に開場したセアーザ(通称「CEASA」、正式にはCEAGESP=聖州食糧配給センター)は、聖市民の胃袋支える連邦政府傘下の市場だ。食糧配給企業として南米1位の規模を誇る。そんな超巨大公営市場だが、開場当初は働くひとのほとんどが日系人だった。現在はごく少なくなったが、今も現役で働く日系人を取材し、往時のセアーザ様子や彼らが子弟の教育にかける思いを聞いた。

 「あのころはブラジル人だって日本語をしゃべってたんだ。『イクラデスカ?』なんて言って、うまいもんだったよ」――。セアーザで一番の古株、新垣源吉さん(81、沖縄県)はそう懐かしそうに話す。
 「セアーザ」は1969年に国有会社と合併して「セアゼスピ」となったが、現在もその呼びやすさから旧名のまま親しまれている。現在約500の卸売業者と仲卸業者が軒を連ね、野菜、果物、花卉、魚介類などを販売。毎日約5万人の納入業者や仲買人、卸売人が行きかい、1万2千台のトラックが場内を走る。
 新垣さんは66年に開場したときから野菜の卸売業を続けていて、現在はトマトを専門に販売する。沖縄県知念村(ちねんそん、現・南城市)で生まれ育ち、17歳で中学校を卒業した。
 父親は第2次大戦で戦死し、母親は14歳のときに病で亡くなった。そのためブラジルに移住していた伯父に呼び寄せられ54年、卒業の1週間後に4人の兄弟とともに渡伯した。
 新垣さんは「沖縄では毎日芋ばかり食べていた。肉は祝いの席で年に1度食べる程度。ブラジルに行ったほうがずっとましだと思っていた」と話す。はじめの4カ月間、倉庫作業をした後、メルカード・カンタレイラ(カンタレイラ市場)の伯父の卸売店で働いた。
 深夜2時半に仕事を始め、夕方まで働いた。夜の6時から8時まで小学校に通い、ときどき柔道も習いに行っていたという。学費は伯父が払ってくれた。睡眠時間は毎日2、3時間。「沖縄にいたときからアメリカの映画に憧れていて英会話に通ったんだけど、授業中に寝るもんだから一カ月で辞めたよ」と恥ずかしそうに話す。

バンカ(販売店)が立ち並ぶセアーザの様子(By Eduardo Casalini, from Wikimedia Commons)

バンカ(販売店)が立ち並ぶセアーザの様子(By Eduardo Casalini, from Wikimedia Commons)

 学校は3年間通ってから中退し、60年に伯父の知り合いの娘と結婚。その後、独立して自分の店を持ち、66年にセアーザが開場するとすぐに移転した。サンパウロ州が開場から2年の間は賃料を免除するとし、移転を推奨していた。
 もともとブラジルには野菜を食べる習慣が無かったため、主に日系の農家が野菜を栽培し、それを売る卸売業者もほとんどが日系人だった。新垣さんは「売り手が日本人ばかりだから、ブラジル人の客も日本語で数字を言って値段を交渉していた」と話す。
 現在は日本語のやり取りがほとんどなくなったが、場内で台車をひく人が歩行者に注意を促すために「危ないよ」と言うなど、わずかに名残をとどめている。
 新垣さんはセアーザに移ってからはミナスジェライス州内の取引先を見つけ、好調に事業を拡大。従業員4人を雇っていた。しかし71年、小切手の不渡りで大きな損害を被った。トラック1台分のトマトを2週間にわたって出荷し続け、その代金を小切手で受け取ったが、銀行に持っていくと口座にお金が入っていなかった…。(つづく、山縣陸人記者)

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