ホーム | 連載 | 2019年 | 『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=外山 脩 | 『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=外山 脩=(4)

『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=外山 脩=(4)

国策移住地、第一号

晩年の畑中仙次郎

晩年の畑中仙次郎

 日本の対ブラジル移植民事業は――本稿の第三部で記したことだが――最初から試行錯誤を続けた。水野龍のカフェー園移民、青柳郁太郎の植民地移民…と。
 その教訓から次に案出されたのが「地権が確実で営農に適した広大な土地を買い、移住地を造る。そこに日本から直接、移民を自営農として送り込む」という方法であった。
 移住地とは植民地の改称であるが、規模は植民地より一桁も二桁も大きかった。
 この移住地方式は1924年、力行会がアリアンサで先鞭をつけた。が、資金が不足気味で、さらにひと工夫する必要があった。同会の永田稠会長は、国策としての移住地建設を日本政府に提言した。
 数年後、政府がそれに乗った。当時、政府はブラジル移住を奨励していた。第一次世界大戦後の大不況下、国内に充満する鬱積感を外に散らす風穴を開けることが狙いだった。それを推進すべく現地に大型の移住地を建設、大量の移民を送り込もうとしたのである。
 送出機関として、1927年以降、各県に海外移住組合を設立した。その中心機関として、海外移住組合連合会(以下、連合会と表記)を東京に置いた。理事長には元ブラジル大使の田付七太、専務理事には元長野県知事でアリアンサ移住地のために一肌脱いだ梅谷光貞が就任した。事業資金は政府が援助することになっていた。
 以下、水野昌之氏の力作『バストス二十五年史』、地元文協刊『バストス日系移民八十年史』その他の資料を引用しつつ話を進める。(写真は同八十年史より転載)
 1927年12月、梅谷がブラジル入りした。移住地用の土地取得が目的であった。国策であるから在サンパウロ日本総領事館が候補地の選定など事前準備をしていた。ただ、連合会は候補地に厳しい条件をつけていた。
「場所はサンパウロ州またはパラナ州、鉄道の駅から40㌔以内、価格は1アルケール250ミル・レース以下、面積は1万アルケール以上、カフェーを主作物とするため標高450㍍以上の土地が過半を占め、地味は中以上で甚しいムラが無く、1ロッテ=10アルケールで分譲するのに適当な地勢及び河川を有し、健康地であり、地権は絶対に確実であること」という内容であった。
 ところが「1アルケール250ミル・レース以下」で、他の条件を総て具備している土地は、総領事館が入手した資料では無かった。これは、この計画に早くも無理が生じていたことを意味する。
 無理は問題・事故・悶着を発生させる。
 しかし連合会側は、土地購入を急いでいた。各県の移住組合がドンドン準備を進め、連合会を突き上げていたのである。
 そういう事情で止むを得ず、総領事館はサンパウロ、パラナ両州に数カ所の候補地を選び、現地調査のための要員を数人用意した。その中に畑中仙次郎と古関徳弥がいた。畑中は兵庫県人で、東京外語のスペイン語科を出、1912年に渡伯、平野植民地に入った。この話の時点では、総領事館に勤務しており40歳近かった。古関は福島県人で、北大出の測量技師だった。1925年に渡伯、原始林の調査などをしていた。20代半ばだった。
 二人は、1928年1月からノロエステ線方面の候補地を踏査することにした。場所は原始林で、そこに踏み込むには最も不向きな雨季であった。が、敢えて出発した。ここでも無理を犯しているわけだが、一カ月かけて調べ、サンパウロに戻って報告した。それに基づき梅谷は地主と交渉した。
 しかし、やはり価格の点で難航した。
 畑中、古関は3月からソロカバナ線に向かった。最初の候補地は同線クアター駅の北西40㌔ほどの所にある1万2、000アルケールの原始林だった。そこはサンパウロ市に住むエンリケ・バストスという人物の所有地だった。が、その地主も現地を見たこともない…という代物であった。
 当時、クアター駅からは北北東へ公道が通っており、30数㌔行くとバルパという植民地があって、レトニア人がカフェー栽培で相当の実績を上げていた。そこから西方に向かうと、エンリッケ・バストスの所有地があった。途中まで4㌔ほどは支道が通じていたが、その先7㌔には道がなかった。畑中と古関は地元の住民に、そこに入るためのピカーダ(小径)造りを依頼、それが終わるまで、奥地の別の候補地に行っていた。
 半月後、戻ってきたが、畑中はクアター駅のそばにある簡易ホテルで臥せってしまった。奥地旅行中、乗っていた馬から振り落とされ、腰を強打していたのである。現地には古関が一人で行き、3日かけて調査した。しかる後、二人はサンパウロへ戻って報告書を提出した。
 梅谷は買収交渉に入った。今回も価格の点で捗らなかったが、6月、アルケール当たり250ミル・レースで、現金払いで買い取った。6月18日に登記をし、前地主の名をとってバストス移住地と命名、同日をこの移住地の創立=開設=記念日とした。国策移住地第一号であった。
(つづく)

image_print