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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(85)

 夜にはタバチンガからもってきたジャカランダのテーブルを囲んで正輝は友人と話せたし、歩いて仲間のところに行けたし、人生や方針や故郷について心おきなく話すこともできた。日本をでて以来こんなに友情を強めたことはなかった。元一はその人柄ゆえに、アララクァーラの沖縄人からだけでなく日本人からも一目おかれていた。他の日本移民の集団地とちがって、ここには内地と沖縄の人間のあいだに差別が存在しなかった。
 正輝の仲間はメーガーじいさんを中心にした沖縄人グループばかりでなく、同時にサンパウロ大通り928番に住む静岡県出身の高林明雄という内地の学識ある人物のグループとも付き合っていた。
 アララクァーラの日本人のなかでは高林がいちばん学歴が高い。高等学校を卒業していたのだ。農業のかたわら日本語の教師をしていて、みんなから高林先生と呼ばれていた。2年前に渡伯し、サントスからまっすぐモトゥカの東京植民地に入植したが、すぐこの町に移り、その人格と教養によって、日系社会の指導者となっていた。
 洗濯屋の湯田幾江は日本について語り合う仲間のうちで、いちばん若輩だった。1932年、湯田ミエと結婚してすぐで渡伯した。
 もう一人の仲間に有田博夫マリオがいた。他の日本人よりずっとポルトガル語がうまかった。マリオと名乗ったのも、ブラジル人や他の国からの移民と親しくなりたかったからだ。そして、日本人とその周囲の人たちとの仲立ちのような役をしていた。1913年に13歳できたのだから、仲間のうちではブラジル生活がいちばん長いのだった。はじめ、マルチノポリスに入植、そこで、日本人とブラジル人の、特に不動産について売買商談を手伝った。
 そのうち1927年、アララクァーラに移ると、すぐ、サンパウロ大通りに「リスボア・ホテル」を開けた。わざと、日本人のホテルだと判らないようにリスボアという名にしたのだ。けれども、彼はこのホテルに話しにくる他の仲間たちと同じように純粋な愛国主義者だった。外交にたけ、礼儀正しい彼をたよりにしてやってくる日本人たちの相談を受け、必要なときには行くべき場所を紹介した。いわば、町の領事といった役割をした。
 このような知識人や政治意識をもった仲間のほかに、一生涯切れることのない絆で結ばれた仲宋根家、平良家との交友があった。特に平良家の女家長は正輝夫妻にとって、親代わりのようなかけがえのない存在だった。パステスを売る仕事がら、正輝はいつも「パステスーヤー ヌ オバー(パステス屋のおばあさん)」とよんでいた。仲宋根家については正輝は、とくに長男の源佐と仲良くしていて、やがて、彼の仲人をつとめることになった。グァタパラー耕地でブラジルではじめて出席した結婚式いらい、仲人役をやりたいという願いが叶えられることになったのだ。そして、源佐はパステス屋のおばあさんの長女、平良マリアと結婚した。
 町の生活は正輝・房子夫婦に農業を営んでいるころには思いもよらない安楽な暮らしを与えてくれた。毎日の農作業の辛さ、不安な先行き、家の不便さ、マサユキの病気、無医村にすむ心細さ、それらの問題が一気に消えたのだ。
 早く日本に帰りたいという考えもなくなっていた。アイスクリーム店が繁盛する時間は座るひまもなかった。そんな日はもちろん、多少儲かるのだが、ひとりも客がこない日もあった。差し引きすれば、けっきょく、それほど儲ける商売とはいえない。けれども、正輝は儲けを計算するのは苦手だった。雨のち晴れという感覚の持ち主だから、先のことを心配するようなことはしない。

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