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アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(11)=三世校長が就任した日本語学校

高松シヅ前校長と和田ひとみネウザ現校長

 「外国人は10人寄れば倶楽部を作りたがるが、日本人は7、8家族寄れば先ず学校を建てる」という言葉は、トメアスー移住地において決して大袈裟ではない。1929年の第一回移住者の入植時には先ず父兄会が発足し、移民収容所で第一回移住者の丸弘毅氏(元教員)を校長として週3回午後に日本語(国語)の教育が始まった。
 それから90周年が経ち、トメアスー文化農業振興協会(ACTA、文協)敷地内には2つの学校が設置されている。一つはトメアスー日本語学校(和田ひとみネウザ校長)、もう一つは文協が経営する私立校「日系学校」(Escola Nikkei de Tome-acu、武田タケコ・ダルシー校長)だ。
 「17年に私が退職してから完全に世代交代しました」。高松シヅさん(74、長崎県)は、スッと背筋が伸ばしてまっすぐな視線をこちらに向ける。40数年間教師として働き、一世最後の校長職を務めた彼女の隣りには、18年から校長となった和田ひとみネウザさん(38、三世)が座っている。
 他の植民地と同じく教育熱心な入植者たちは、働きながらも子弟教育に取り組んだ。第2次大戦勃発前からブラジル政府は日本語教育を禁止したが、その間も第5回移民の紺野宗一氏(元教員)が密かに個人宅で巡回教授を行っていた。

トメアスー日本語学校

 「日本人は教育熱心でした。ピメンタブームで生活にゆとりが出た時からは日本語教育も旺盛になったんです」。高松さんによれば、戦後移住再開後の53年には、伊藤希彦(まれひこ)氏が文協近くにある橋爪(はしづめ)会館で私塾を開設。これが67年に文協傘下の日本語学校となった。
 91年には北伯初の日本語の幼児教育で4歳から授業を受けられるようになり、さらに同年にはJICAシニアボランティアの森友重憲氏が着任。同氏を中心に学校経営の基本方針や運営組織が決められた。この時に決定した文協、保護者会、教師による三者の学校運営形態が、今日まで続けられている。
 昨年に高松さんから校長職を引き継いだ和田校長は、高松さんの教え子だ。2011年から教師として働き始めた。当時は長く務めた教師の退職が相次ぎ、苦労したという。今は和田校長を中心に、20代~40代までの3人の若い教師と共に働いている。
 現在、生徒の数は58人。大多数が三世、四世の日系人で、非日系人も8人通っている。和田校長は「職場や親戚に日系人がいたり、アニメや漫画に興味がある子供、空手や野球をやっている子が日本語に興味を持って入ってくれるんです」という。

トメアスー日本語学校が外務大臣賞を受賞

 38歳の若さで校長職を引き継いだ和田校長は、「歴史がある分、この学校の校長を務める重みがある」とプレッシャーを感じている様子だ。同日本語学校は、16年に日本の外務大臣賞を受賞している。トメアスー郡では郡の教育として日本語講座を設けており、日本語教育が移住地に貢献してきた功績は大きい。
 また、三世の校長として「日本語能力を向上させないと」と身を引き締める。一方で、北伯の日本語教師養成講座には参加しているものの、「サンパウロで行われている養成講座に行きたいけれど難しい。旅費の問題は大きい」と切実な状況を訴える。世代交代は出来たものの、他の移住地の日本語学校と同様に財政面、人材面などの壁にぶつかっている様子だった。(つづく、有馬亜季子記者)


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 トメアスー日本語学校は生徒からの月謝と文協の資金を財源としているが、生徒数の減少により決して潤沢ではない。スキルアップのためにサンパウロの講座を受けたくても、厳しいのが実情だ。今年6月末に決まり、海外日系社会の日本語教育支援も盛り込まれている『日本語教育推進法』を利用して解決できないかと話したが、高松シヅさんは「それはサンパウロしか適用されないのでは?」と不安そうにしていた。同法案はブラジル日本語センターを中心として全伯に適用される。現在は日本政府側に予算に関する要望書を提出している段階だ。トメアスーのように他州に住む日本語教師に対しても、同じ恩恵が得られる内容であってほしいもの。

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