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ブラジル独立記念日特集=皇帝ペドロ1世と二人の女性=独立の陰の功労者、不幸な皇后=平等に扱われた嫡子と庶子

サンパウロの街を背景にした23歳のペドロの肖像画(1822年、Simplício Rodrigues de Sá [Public domain])

 ナポレオン軍のリスボン侵攻直前の1807月11月、ポルトガル王家が乗った艦隊はイギリス艦隊に護られてブラジルへ避難、翌年08年3月にポルトガル領植民地の中で一番裕福だったブラジルの主都リオへ移った。この時ブラジルに上陸して最初に君臨したポルトガル王族は女王マリア1世だった。王を戴いた「ブラジル植民地」は、1815年から正式に「王国」へと格上げされた。
 だが1816年に女王が死去したので息子がジョアン6世として王に、その孫ペドロ(1798年10月12日―1834年9月24日)が王太子に即位した。
 このペドロが、ブラジル独立時に皇帝ペドロ1世になった人物だ。ナポレオンに追われて故郷リスボンをあとにした時、ペドロはわずか9歳だった。弟や父と共にサンクリストヴァン宮殿に居住して育った。そこはのちに国立博物館として活用された歴史的な建物で、惜しくも昨年10月に火災で全焼した。
 ペドロの性格を支配していたのは、過剰とも言える力強い情動だった言われる。ウィキペディアには《彼は衝動的で、高飛車で短気になる傾向があった。飽きっぽく気をとられやすく、私生活では彼は女遊びに興じ、さらに狩りと馬術がそれに続いた。彼の落ち着きのない精神は彼に冒険を強いた。彼は時々、変装してはリオの悪所に通った。彼が酒を飲むのはまれだったが、どうしようもない女たらしであった。彼が最初に関係を持った女性は、フランス人ダンサーのノエミ・ティアリーだといい、彼女は彼の子を死産した》とある。

マリア・レオポルジーナ・デ・アウストリア皇后(Joseph Kreutzinger [Public domain])

 ペドロの父、ジョアン6世は息子の将来を心配して、オーストリア皇帝フランツ1世の皇女マリア・レオポルジーナと結婚させた。その邪魔にならないように仏人ダンサーは追放した。
 1817年5月にペドロはレオポルジーナと本人不在のまま代理結婚し、本人は11月5日にリオへ到着した。彼女は聡明な人物だったが、すぐにペドロと恋に落ちた。19歳の王子はやや高めの身長、輝く黒い瞳に暗い茶色の髪だった。
 ブラジル育ちのペドロは粗野で横暴な人物で、ふだんは陽気だが、突然鞭を振り上げて暴れるようなところもあり、妻に暴力を振るうことすらあった。
 1821年、父ジョアン6世を先頭にポルトガル宮廷がリスボンに帰還すると、ペドロはブラジル摂政として残留した。
 ペドロは、ブラジル独立に関して妻と議論して、その助言に従ったと言われる。ブラジルの歴史上、決定的な独立への歩みは妻の影響力による。1822年にペドロがサンパウロへの旅行を決定したときに、彼は妻レオポルジーナに首都の留守を任せる摂政妃とした。
 1822年9月7月午後4時半ごろ、イピランガの丘でペドロは複数の手紙を受け取った。一つは、「ポルトガル議会はブラジルの自治政府を認めない。この命令を破るものは皆罰する」ことを伝えるもの。もう一つは、レオポルジーナからペドロに独立の決断を催すものだった。
 これを受け、ペドロは「わが血にかけて、わが名誉にかけて、わが神にかけて、ブラジルに独立をもたらすことを誓う。ブラジル人よ、きょうのこの日より合言葉は『独立か死か!』だ!」と叫んだと言われる。いわゆる「イピランガの叫び」だ。

恋多きペドロに苦しむ妻

 ペドロは恋多き男だった。賢母で知られる正妻マリア・レオポルジーナ・デ・アウストリアとは、7人の子どもに恵まれた。だが、それに加えて皇帝は、子どもを作った愛妾だけで4人ほど知られている。

サントス侯爵夫人ドミチーリア(Francisco Pedro do Amaral [Public domain])

 そのうち最も長い期間、皇帝の寵愛を受けたのがドミチーリア・デ・カストロ・エ・カント・メロ(1797年12月27日―1867年11月3日)だ。彼女は聖市生まれで、「イピランガの叫び」のわずか数日前に知り合い、二人は恋に落ちていた。
 ペドロはドミチーリアを首都リオへ呼び、レオポルジーナの女官にすえた。この頃、ドミチーリアは夫フェリシオとの結婚を無効にしていた。1823年、リオに初めて邸宅を与えられ、皇帝との間に5子をもうけた。
 1825年、ドミチーリアには「初代サントス子爵夫人」の称号を授けられ、翌年にはさらに上の称号である「サントス侯爵夫人」まで授与された。彼女は皇后に激しく嫉妬し、ペドロの血を引く自分の子供たちが、皇子皇女らと平等に扱われるよう求めた。
 ペドロ1世は、皇后や周りの苦言に配慮することなく、嫡子と庶子を分け隔てなく宮廷で育て、良い教育を授けたといわれる。1825年12月に皇后が待望の皇子ペドロ・デ・アルカンタラ(のちの皇帝ペドロ2世)を生んだ。競うように同じ月にドミチーリアも男児を生むと、ペドロは庶子に皇子と同じ名を与え、皇子と庶子は並んだ揺りかごの中で眠ったという。
 1826年12月1日、ペドロは夫婦げんかの勢いで突然、妊娠しているレオポルジーナのお腹を複数回蹴ろうとし、それで死産が起きたと言われる。皇后は10日後の1826年12月11日にリオのサンクリストヴァン宮殿で他界した。人々は、ペドロの誤った行動が若き皇后を死なせたと思った。
 1826年当時、フランス人女性アデール・ボンプラン、セッス夫人、ドミチーリアの実姉ソロコバ男爵夫人マリア・ベネディタらが愛妾としてあげられていた。
 1829年、ペドロ1世とドミチーリアの関係は破綻した。彼女の実姉マリア・ベネディタが皇帝との間に庶子を生んだことを知ったドミチーリアが激高し、姉を殴打しようとしたためだと言われている。
 しかし別離の最大の理由は、ペドロ1世がヨーロッパ王族の高貴な血を引く女性との再婚を考え、アメリーを迎えたことだった。

聖市セントロにある旧サントス伯爵邸宅(Dornicke)

 1833年、ドミチーリアは陸軍旅団長と再婚し、彼との間に4子をもうけた。彼女は皇帝から別れを告げられたあと、聖市セントロで生活をしていた。その住まいがサントス伯爵邸宅(Solar da Marquesa de Santos)で、パチオ・ド・コレジオのすぐ横に現在も博物館(Rua Roberto Simonsen, 126)として公開されている。
 老齢に達した頃、彼女は貧者や見捨てられた病人への支援活動を行う慈悲深い女性となっていた。1867年、ドミチーリアは腸炎で亡くなり、聖市コンソラソン墓地に埋葬された。

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