革命か、反乱か
米国などで反黒人差別「ブラック・ライヴズ・マター(英: Black Lives Matter)」の運動が起きているのを見て、ブラジルにおいては日本移民も人事ではないと感じた。そもそも、1888年の黒人奴隷解放令により、コーヒー農園で労働者が足りなくなったところから、最初はイタリア移民が導入された。だが奴隷同然の待遇に怒りが爆発して本国に訴えたため、送り出しが中止され、代わりに導入されたのが日本移民という歴史的な経緯がある。つまり、黒人奴隷の代わりに農場で働いた。
加えて、本来なら先週祝われるべきだった「護憲革命記念日」にも、それに関係した背景がある。そこを説明したい。
1932年7月9日にリオの中央政府に対して、サンパウロ州義勇軍が憲法制定議会の招集、「憲法を護れ!」を掲げて反旗を翻し、ブラジル史上最大の市民戦を繰り広げたのが護憲革命だ。
なぜそんなことをしたかと言えば、当時の暫定大統領ゼッツリオ・ヴァルガスが、30年に革命を起こして政権を掌握し、憲法を停止したからだ。最南端の南大河州から革命軍を率いたヴァルガスに、首都リオの陸軍が共鳴して大統領を追い出したために彼の革命は成功した。
護憲革命ではヴァルガスが軍をきっちりと掌握していたために、反乱軍の方が鎮圧された。もしも反乱軍が勝っていたら、その後の首都はサンパウロ市になっていた。
彼は30年から戦後にまたがって政権を握り、ブラジル国家の骨格を作った人物と言われる。にも関わらず、「サンパウロの敵」となった歴史経緯から、ブラジル広しと言えど、サンパウロにだけは「ヴァルガス」という名前が主要幹線道路や広場についていない。
だからサンパウロ州では「護憲革命(Revolução Constitucionalista)」と表記されるが、首都だったリオ側からすれば「パウリスタ反乱(Revolta paulista)」「パウリスタ戦争(Guerra Paulista)」と言われることが多い。立場によって、見方は逆になる。
義勇軍に参加した日本移民たち
護憲革命は日本移民史とは関係ないと一般的に思われているが、意外にそうでもない。
戦後ジャーナリストとして活躍した山城ジョゼのように義勇軍にブラジル人として参加した二世も数人いたし、中には一世なのに「中尉」に任命された人もいた。
『香山六郎回想録』(サンパウロ人文研、1976年)には、《一九三二年聖州に護憲革命が起り、ゼツリオ中央政府打倒の戦が起った際、ある日本人は護憲軍の中尉に任命されてサンパウロ市で軍人の中尉制服をつけ、大手をふって日本人コロノに兵になるよう義勇軍を募集し始めた。護憲軍の義勇軍中尉殿とは原田政平、平井格次、青木伊三郎、辻本昇、明穂実、秋永忠治、岸本次男の七人であった》とある。
中でも平井格次は、戦後に日本移民の多くが従事した洗染業の先駆者だ。1930年から洗染業を始め、まさに護憲革命が起きた1932年にブラジル人同業者と共に「洗染業組合」を組織した。当時は日本人で同組合に入ったのは3人だけ。38年には日本人だけの洗染業組合を立ち上げ、その会長に就任。戦後は田村幸重を連邦議員に送り込む選挙運動を、日本人洗染業界を挙げて取り組んだ移民史上の功労者だ。
この護憲革命の真っさなかに移住した者もいた。家族7人で移住した子供移民、梅崎嘉明さんは2015年7月29日付本紙に「護憲革命の思い出」を寄稿してくれた。その中に《(1932年)7月26日に私たち800余名の移民が、大阪商船ラプラタ丸でリオ港に到着した》とある。
移民船から移住局へ上陸申請の無電を打ったが、先方からOKの返事が来ず、結局サントス港に向かった。移民にとっては世界三大美港観光は、ブラジル渡航のハイライトだった。だが当時は革命の最中であり、サンパウロ軍がいつ来るか分からない中、リオは厳戒態勢を敷いていた。
サントス港では無事に上陸でき、800人がサントス市内のホテルに分散して宿泊した。当時10歳だった梅崎さんは、《ホテルの窓から野外に目をやると、土嚢を積んだ塹壕が左右に伸びていて、何十名かの兵士が銃を構えて前方をにらんでいた。上官らしい男が何か叫び、兵士は一斉に土嚢を越えて前方へ走り去った。革命軍の集団訓練らしい。「勇ましいな」と私が感嘆していたら、髭面のホテルの主人から中に引っ張り込まれた。革命をすごく警戒しているらしい様子だった》と生々しく綴っている。革命軍はリオから連邦軍が来るのを警戒していた。
戦場になった東山農場
実際に戦場になった日本人農場もあった。カンピーナス郊外にある東山農場だ。
1932年7月9日に始まった革命は最初こそリオ方面に向かって攻め込んだが、9月下旬には体制を整えた連邦軍に押し返される形となった。その結果、サンパウロ州軍はサンパウロ市まだあと100キロというカンピーナス周辺で最終陣地を張っていた。
その結果、東山農場を挟んで対峙し、最後の激戦を繰り広げた。今年11月に創立93周年を迎える日系最古の企業の一つだ。三菱財閥の創業者である岩崎彌太郎の長男・久彌が創業者の農場で、当時の農場長は山本喜誉司だった。ちなみに東山は彌太郎の雅号だ。
山本の二男のカルロス坦に取材して書いた連載「山本喜誉司と護憲革命=家族が語るコロニア秘史」(2012年7月4日から4回、https://www.nikkeyshimbun.jp/2012/120704-71colonia.html)によれば、岩崎久彌社長は、山本喜誉司に全幅の信頼を置いていた。
《坦は「岩崎久彌は笠戸丸以来の日本移民のことをとても気にしていて、ブラジルの農業はサトウキビとコーヒーだけで、いずれ国際相場の暴落で痛い目を見る。だから父にお金儲けのためではない、作物の種類を増やすような実験農場をつくって農業技術を広めてくれ」と依頼したと聞いている》とある。
東山農場を挟んで、機関銃や爆弾が飛び交う状態になったが、山本喜誉司を先頭に幹部は農場の本部に残った。山本家は聖市へ避難した際、別れ際に坦は父から、「岩崎家から預かったこの農場から離れることは絶対にできない。命に代えても死守する」という覚悟を聞いた。明治の日本人の気骨が感じられる一言だ。
9月の「農場月報」には、次のような緊迫した記述(現代表記に修正)が見られる。
【9月27日=本部に據れる(サンパウロ州軍)一隊午後9時退却、本部の前方1キロメートルにある牧草地Anhumas No.1高地に據る。ここに本部は全く両軍の間に介在す。本部広場にはブラジル並びに日本国旗を掲げ中立を表示す。(中略)連邦軍はPonte Alta牧場境に據り、午後両陣地の間に戦闘開始、本部上空は銃弾の雨となり、折々本部建物に命中す】
坦は「最も背の高いユーカリを切り倒して本部の横に立て、頂上に日伯の国旗を並べて掲揚しました」という。「ここは日本人の農場であり、中立だ」という意思表示のためだった。
10月1日、農場に侵攻してきた連邦軍騎兵隊の大佐は、本部広場の日伯旗をみて、「なぜ国旗を掲げているのか」と山本に質問した。山本が「この農場は日伯友好を体現する特別な場所だという意味を国旗に込めたのです」と説明すると、彼はたいそう気に入り、その場で部下の兵士に「この農場では乱暴狼藉、略奪のたぐいは絶対に許さん」と命じたという。こうして護憲革命は翌2日に鎮圧された。
東山農場は第2次大戦中、敵性資産として資産凍結された。大戦終結後、46年1月にヅットラ陸軍元帥が大統領に就任した時、その顔写真が掲載された伯字紙を見た山本喜誉司は、「坦ちゃん、おいで。この写真を見てごらん。護憲革命のときに最初に進軍して来た騎兵隊のコロネルじゃないか」と言ったという。
ヅットラは確かに32年に連邦軍の南ミナス州騎馬連隊で司令官を任じていた。階級もコロネル(大佐)だ。東山農場を通過したかどうかの確証はないが十分ありうる。
東山農場は戦中、敵性資産として清算され、戦後にカンピーナス付近で土地を探していたオランダ移住機関に売られそうになっていた。だが、なぜか時のヅットラ大統領はそのサインをしなかった。
坦は「確証はありません。でも父は言いました。もしかしたらヅットラ大統領があの時のコロネルで、東山農場のことを覚えていたからサインをしなかったのではないかと」と明かした。
東山農場内の珈琲園を望む高台に立つ見晴らし台「一心亭」の欄間には、今も護憲革命の時に貫通した弾痕が残っている。
新憲法に挟み込まれた日本移民排斥条項
護憲革命の結果、翌33年5月に選挙が実施され、憲法制定議会が発足し、新憲法の議論が始まった。ヴァルガスなりの譲歩であった。
翌34年7月16日に発布した新憲法は、日本移民にとって冷や水のような内容が含まれていた。33年には約2万5千人、34年には2万1230人もが続々と上陸し、33年に日本移民渡伯25周年を祝って日本病院建設を決めるなど、絶頂期を謳歌していた。
排日学者で有名なミゲル・コウト派が提出した各国移民制限条項は、新憲法「補項第6」として挟み込まれた。《国家の領土内への移民の入国は移民の人種的ならびに体質的及市民的資格の統合を保障する為に必要なる制限を受くべし。但し各国移民入国は最近50年間にブラジルに定着したる該当国民の総数に対し毎年その百分の二(2%)の限度を超ゆることえず》と定められた。
いわゆる「二分制限法」と呼ばれるもので、事実上、日本移民を狙い撃ちした入国制限規定だった。人文研年表77頁には《日本移民の入国数は過去に124,457人であり、この割り当ては2,489人となる》とある。2万人が2千人に減らされた訳だ。
サンパウロ新聞の万年編集長・内山勝男はこの時のショックを、《突如晴天の霹靂ともいうべき大事件が勃発した。二部制限法通過! 何と、アメリカと同じ二分制限法……。いまや再び、大和民族の本流は遮断されてしまったのだ。移民の極盛期において、しかも日伯関係の最も好調なるこの時期において、一体これはどうしたことであらう。現実のかくや急激な変化を、果たして信じていいのか》(手記『三十余年間』内山勝男、1944年、634頁)と嘆いた。
ミゲル・コウト派は米国で1920年代にもてはやされた黄禍論に準じていた。1913年に北米カリフォルニア州で排日法成立、20年3月には北米移民の写真結婚禁止令、24年にアメリカ排日移民法が上下両院通過という流れだ。
これに沿って、ブラジルでも23年にフィデリス・レイス(Fidelis Reis)下院議員がレイス移民法案を下院に提出していた。その中に「黒人種移住者のブラジル入国を禁止する。黄色人種についてはブラジル国内に入国、定住する同国人の100分の3に相当する数まで毎年入国を認める」という部分があった。
これは、米国が黒人20万人をアマゾン地方に送り込もうとする動きがあり、これを阻止するのが主目的だった。それに日本移民を想定した黄色人種うんぬんの箇所が付け加えられた。これに対し、ブラジル医学学士院のミゲル・コウト会長は当時の医学会を代表してこの案に賛成との意思表示をしていた。
だがこの時はコーヒー園契約労働者を必要とするサンパウロ州選出の議員によって強烈に反対され、26年のサンパウロ州農業主の支持を集めたワシントン・ルイス大統領が選出され、レイス移民法案はお蔵入りにされていた。
それが護憲革命でサンパウロ州勢力が発言力を失っている間に、1934年憲法で形を変えて復活したのが「二分制限法」だった。
この当時、ブラジル政府にとって米国黒人と日本人移民は、同じくらいに忌み嫌う存在だった。
いま世界で起きている反黒人差別対運動が起きているが、歴史的にみれば、戦前の日本移民にとって、黒人は自分たちと同列であり、けっして他人ごとではなかったといえる。
日曜を働く移民とさげすまれ我等働く金溜めむため 酒井繁一(1934~37年作)
パウリスタは護憲革命に勝ったか
ヴァルガスは腹心を執政官として各州に派遣して統治させていたが、護憲革命の翌33年からサンパウロ州にはサンパウロ州人を指名することに変えた。それがアルマンド・デ・サーレス・オリベイラで、彼を中心にサンパウロ州立総合大学(USP)創立が進められた。
当時の知識人、セルジオ・ミリエは《サンパウロから二度と市民戦争は起きないが、ブラジル社会の経済思想を変革する、科学的もしくは知的な革命は起きる》とその創立目的を記している。つまり「武力でなく、文化と科学でブラジルに革命を起こす人材を育成する」ことを目的に大学を作った。
当時の教育関係者、企業家らが力を合わせて、人文科学系はフランスから、理系はドイツから名だたる学者を招へいしてブラジルの学術レベルを一気に引き上げた。その結果、USPからは数多くの大統領、大臣、政治家、官僚を輩出した。それをもって、サンパウロ州人が「最終的には、護憲戦争に勝った」と言うのをよく聞く。
そこに日本移民は子供を次々に送り込んだ。全人口の0・7%しか占めない日系人が、USP学生の平均1割、学部によっては2割を埋めた時代もあった。ブラジルに文化的な革命を起こす人材として教育を受け、同時に戦後の日系社会の基礎が形成された。
有能な日系子孫がブラジル社会で活躍する姿があったから、戦後の日本人差別は雲散霧消したのであり、長い年月をかけた積み重ねの成果ではないかと思える。
日本人が今のようにブラジルで受け入れられるようになったのは、サンパウロ州人が平和的な手段を通して、国内で強い発言力を持ったことだ。そうなったきっかけは、やはり護憲革命に負けて勝ったからではないか。(深)