ホーム | コラム | 特別寄稿 | 特別寄稿=まぼろしの『十九の春』=聖市在住 醍醐麻沙夫

特別寄稿=まぼろしの『十九の春』=聖市在住 醍醐麻沙夫

「私があなたに惚れたのは、ちょうど十九の春でした。いまさら離縁というならば、もとの十九にしておくれ」

添田唖蝉坊(1920年、published by 刀水書房, Public domain, via Wikimedia Commons)

 これは安里屋(あさとや)ユンタなどと並んで最も知られている沖縄の歌「十九の春」の最初の歌詞です。
 もとの十九にしておくれ、と言われてもかなり困るけど、彼女の気持ちはよく分かります。
 ちょっとゆっくりしたテンポで、三線の伴奏でしみじみと歌われます。
 今では代表的な沖縄の歌ですが、この曲には元歌があったことが知られています。その元歌というのは東京ではやったラッパ節です。ラッパ節は有名な演歌師の添田啞蝉坊(そえだ・あぜんぼう)が「渋谷のばあさん」という流しにたのまれて明治38年に歌詞を作ったというけど、たちまち全国に流行しました。オリジナルの歌詞はいくつもあるけど、その一つを引用すると、
わたしゃよっぽど あわて者
がま口拾ふて よろこんで
家へ帰って よく見たら
馬車にひかれた ひき蛙 
トコトットット 
 というような、囃子詞(はやしことば)をともなった75・75調の歌詞です。
 にぎやかで覚えやすい歌詞と節回しなので、全国でさまざまな歌詞がつくられ唄われたといいます。
 明治38年というとラジオ放送が始まる20年ほども前ですから、この歌が沖縄まで伝わるにかなり時間がかかったと想像できます。
 一説では、九州の炭鉱に働きに来た沖縄の人が持ち帰ったといわれています。(「十九の春」までの中間的な歌として与論島に「与論ラッパ節」があった)
 唖蝉坊は渋谷のばあさんという流しに頼まれたというので、流行してからはにぎやかな楽隊の伴奏もあったが、はじめは三味線の伴奏で唄われたにちがいない。それが沖縄で歌われるうちに、歌詞の7、5調だけはそのままに、トコトットットというような囃子言葉も消えて、三味線とはちがった味わいを持つ三線の伴奏で沖縄情緒あふれるしんみりした曲になったようです。

笠戸丸のラッパ節  

 唖蝉坊がラッパ節を作ってから3年後、明治41(1908)年4月、最初のブラジル移民を載せた笠戸丸が神戸を出航しました。その航海中ラッパ節が大いに歌われ、替え歌もつくられたということが『移民40年史』(香山六郎編著)にでています。
 『當時日本の流行唄はラッパ節であった。笠戸丸甲板上でこんなラッパ節が唄はれた。
 一、チエテ河畔秋更けて今宵も出できし絃月に 影と二人でたたずみつ故郷を偲べば唯 虫の聲
 一、凉風通(かよ)ふ珈琲蔭(こーひーかげ) 晝(ひる)の疲労をやすらへば
 遠(とう)の笛の音ゆかしくも月さえ出(いで)て来る夕哉(ゆうべかな)
            (高桑秋(たかくわあき)の人)

  左のラッパ節も移民青年の作であった。
一、流れ千里のアマゾンの岸の大木を伐(き)り拂(はら)ひ 筏つくりて日の丸たてゝ 隅田川まで流したい (公孫樹(こうそんじゅ))』
 作者の(公孫樹)は40年史の編著者の香山六郎で、(秋の人)は高桑治平(たかくわじへい)という山形県人である。(船中で皇国殖民会社ブラジル代理人の上塚周平をかこんで句会がひらかれ、二人ともそのときの句名)
 香山も高桑も外国へ行ってみたいという冒険的な若者たちだった。一方、笠戸丸移民は「ブラジルは暑い国だから」という理由で鹿児島と沖縄で主に募集した。そして、内地の人で三味線を帯同した人はいなかったが、沖縄の人は三線を持ってきた人はいた。これについては、笠戸丸移民だった香山六郎の記述がある。
 「第一回移民で三味線を抱えてサントス港に上陸したものはなかった。沖縄縣移民だけは蛇味線(るびなし)(注・蛇皮線(じゃびせん)か)を抱いて上陸した。月の赤い夜などサントス市郊外、波の音きくカンポ・グランデの掘立小家の佗住居(わびずまい)にも、蛇味線弾いて祖国情緒に想いをやった。福島青年独身移民の一人は竹の横笛をもっていた。尺八をもった移民はなかった。(移民40年史 四、音楽と舞踊の項)」

植民地の慰安会に三味線は欠かせないものだった(『在伯同胞活動実況写真帳』竹下写真館、1938年)

 独身青年たちがラッパ節を歌うのも、沖縄の人が三線(さんしん)をひくのも甲板だった。航海は51日間・・これだけの日数があれば沖縄の人がラッパ節を覚えて三線の伴奏で弾くには十分な日数ではないか。
 つまり、私が言いたいのは、かなりの日数をかけて沖縄に伝わったラッパ節ですが、笠戸丸船上ではいきなり出会ってしまったという面白さです。
 そして、笠戸丸がサントスに着くころには、沖縄本島でラッパ節が「十九の春」に変身したような変化がすでに起きていたのではないかと推測されるのです。
 それについては『四十年史』にある三つの替え歌が手掛かりを提供します。まず香山の歌。
「流れ千里のアマゾンの岸の大木を伐り拂ひ 筏つくりて日の丸たてゝ 隅田川まで流したい」
 これについては、アマゾンで木材の買い付けをした経験のある中隅哲郎は「その意気や壮とすべきだが、アマゾンの材木のほとんどは重く、水に沈むので、筏をつくっても沈んでしまう」と言っている。たしかにアマゾンでは有用木材は船で運ばれます。
 高桑秋の人の二作は、ブラジル(アマゾン)を空想で唄った香山の作と趣を異にして、しんみりした曲想ですが、まだ移民達には知られていなかったチエテ河という、あまり大きくない河の名がある点、暑いばかりと思われていたブラジルの内陸部も夜はあんがい気温が下がることが唄われている点などから、ブラジルに着いてからの作だと、私は推測しました。

三線を奏でながら歌う男性(参考写真)

 笠戸丸を待つ神戸の宿で同宿となり、それ以来の友人でありながら、ブラジルについて10年後に肺病で亡くなった友をしのんで香山は笠戸丸の場面でこの二作を紹介したように思えるのです。
 高桑は笠戸丸より二年前にブラジルに来ていた鈴木貞次郎の甥で、鈴木に呼ばれたか鈴木を頼って自由移民としてきたので、鈴木の行動から推して、高桑がチエテ河畔で働いたのはブラジルに着いて数年後です。
 この替え歌の歌詞では、もうラッパ節のテンポでは歌えなくて、「十九の春」くらいのテンポと情緒がぴったりします。(もちろん、トコトットというような囃子詞も似合わない)
 東京から沖縄へ長い時間をかけて伝わった曲が、笠戸丸船上ではいきなりの出会いがあり、その数年後、笠戸丸移民のコロノ(コーヒー園労働者)の長屋からすでに「十九の春」に似た唄い方と三線の音が洩れていたかもしれない、というのが私の空想です。
 その歌を聞いてみたいと思うのは私だけでしょうか。

image_print