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特別寄稿=白い黄金を求めて=ブラジル綿花の歴史と日本人綿作者=櫻井章生(さくらいあきふ)=《2》

 以上の諸要因に加えブラジルに従来存在しなかった害虫ビクードの蔓延が北東伯の綿作の衰退の大きな要因となった。
 ビクードと呼称される害虫の学名はAnthonomus grandis、英語でboll weevil(ボール・ウィービル)と呼ばれ、綿花の害虫で最大の被害を与えるゾウムシの一種で綿のボールの養分を吸い取る害虫で繁殖力は極めて旺盛である。この害虫は成虫が産卵し、卵は孵化してさなぎから幼虫を経て成虫になるが、このサイクルの期間は2~3週間で、一シーズンの間に6~7回のサイクルを繰り返す。
 米国におけるボール・ウィービルは1892年にメキシコから侵入したのが始まりで、米国東南部とテキサスへ広まる綿作に大被害を与えた。ただしこの害虫は冬季の気温が低いと越冬せず死滅する。また灌漑地帯には発生しない傾向にある。
 米国の科学的農業が未発達の頃はこの害虫から逃れるために冬季の寒気、夏季の酷暑と乾燥の度合により害虫の発生に変動があるため、発生した地区から他地区へ綿作を移動することも頻繁におこなわれた。
 ブラジルに発生したのは1983年で当時南ブラジル・サンパウロ州の綿作の中心地であったカンピーナスの綿畑に突如発生し、同時期に北東伯の綿作地パライーバ州にも発生した。当時取り沙汰されたのは欧米系の大手農薬メーカーの人間が米国から持ち込んで、故意に南ブラジルと北東ブラジルの綿作中心地に害虫をばら撒いて蔓延させ、農薬の販売拡充を図ったものだという話であった。
 その話の真偽はともかく、この害虫との戦いに綿作者は多大の犠牲を払う結果となった。
 当時サンパウロ州ではビクードがカンピーナスからさらに奥地へ移動していく時間は途中の砂糖黍畑が緩衝地帯として移動をある程度止める役割をするため、4~5年かかるという見方もあったが、2年程の内にはサンパウロ州全体に蔓延し、隣接のパラナ州、ミナス州、南マット・グロッソ州へと広がっていった。
 当時一部の綿作農家でビクードの発生を見てその対策の難しさ、害虫駆除の費用増大による綿作の採算悪化を懸念し、以後綿作を中止し、玉蜀黍とか落花生作に転換した農家もあった。
 南伯の諸州はビクード蔓延対策として、他州から州境を越えて入ってくるトラック積の綿花に対し、害虫の消毒燻蒸を義務づけ、州境の検問所で燻蒸証明書の提示を求めたが、燻蒸を実行せず形式だけの証明書を提出ことも頻繁に行われたこともあり、まもなく廃止された。
 以降はビクードの駆除用農薬を数回にわたる散布、ビクードがさなぎの状態で越冬の隠れ家となる収穫後の綿木残滓の処理費用が綿花耕作の原価に加算される結果となった。
 北東伯のパライーバ州のカンピーナグランデは交通の要地であり、綿作に適した地帯であることから多くのジン工場が設置され、綿花事業の中心地となった。
 パライーバ州は隣接州のリオ・グランデ・ド・ノルテ州、セアラ州、ペルナンブコ州が綿作の中心地となって22万トン以上を生産するに至った。

1940年頃、輸出用綿花のプレス包装

 1960年代から1970年代かけて、ブラジル南部諸州の紡績工場はその混綿原料の柱として北東伯のmocó綿を手当てした。
 1955年から1960年代にブラジルに進出した日本の大手紡績八社、鐘紡、東洋紡、ユニチカ、大和、倉敷、日清、都築、オーミケンシで東北伯綿を使用するところが多く、北東伯の綿花収穫シーズンには各社の原綿担当者が北東伯の綿作地とジン工場を視察したものである。
 その北東伯の多年生mocó種の綿花はピーク時22万トン以上生産し、1960~1970年代には20万トン前後の生産を続け、ブラジル綿花生産の約40%を生産した。
 その後前出した種々の要因により減反の傾向をたどり、1976年の生産16万7千トン以降、1985年まで10万トンを維持したが、1986年から2000年まで3万トンから5万トン代となり、2001年には1万1千トンに急落、旧セルトン5州(セアラ、パライーバ、リオ・グランデ・ド・ノルテ、ペルナンブコ、アラゴアスの5州)のmocó種綿花は姿を消していき、2020年にはわずか3千トンに留まった。

・高原地帯の綿花

ゴイアス高原の棉畑、1990年代

 北東伯の内、バイア、ピアウイー、マラニョンの3州の綿作は2000年に入ってから新しい局面を迎え、大幅に技術改革され、完全機械化による大規模農業で実綿収穫機と包装の自動化、運搬と在庫方法改善、ジン機械のリントクリーナー設置を含む改良が進んだ。
 機械化耕作のため綿作地は平坦で大面積となり、海抜800~900メートルの高原地帯へ移動した。
 綿作に高原が選ばれたのは、熱帯亜熱帯の日中の高温時に盛んに炭酸同化作用(光合成)が行われ、生産されたエネルギー養分をため込む。夜間は光合成がストップしても植物の呼吸が続いておりその活動によって養分が消費されるが夜間気温が低い場合は呼吸数が少なくなり、残った養分はボールの成長へ回されるため良質の綿花がえられるわけである。
 バイア州、特にその西部の広大な高原からピアウイー州、マラニョン州にかけて広範囲で平坦な高原地帯があり、年間雨量は1500から1800ミリの適度の降雨量がある。この高原地帯の綿作はかっての北東伯乾燥地帯のセアラー、パライーバ、リオ・グランデ・ド・ノルテ、ペルナンブコ、アラゴアス諸州に於ける多年生mocó種の綿作とは全く異なった様式で、デルタオパール種を主とした米国からの新種の導入、有機質が不足がちな土壌における整地作業で深耕鋤を使用して、土壌の有機質の保全、酸度の矯正、充分な施肥と病虫害対策、成長抑制剤の使用、雑草対策としてラウンドアップ除草剤の使用、熟成促進剤、収穫前の落葉剤の使用等最新技術が導入されている。
 生産性もヘクタール当たり実綿300アローバ(4500キロ)原綿で1800キロと高水準を得るに至った。
 尚実綿に対する原綿の歩留は、従来は33~35%止まりであったが、新種の導入により40%となっている。
 品質管理も進んでおり、220キロ梱包ベール毎に格付登録されており、従来の北東伯綿のイメージとは全く異なる綿作となっている。
 その生産量は今世紀に入ってから急速に伸び、特にバイア州の生産量は2000年迄の6万トン台から、2003年には11万4千トン、2004年に26万5千トンと飛躍し、2020年には59万6千トンとブラジルではマット・グロッソ州に次ぐ第二の生産州となるに至った。
 北東伯のmocó種の綿花については、旧栽培地帯において灌漑システムをとりいれたりして、栽培技術の研究が行われており、セルトン綿の生産を取り戻す努力が続けられている。


〜 南 伯 綿 〜


◎サンパウロ州綿作

米国製の高速繰綿機械、1980年代

 北米で奴隷解放の南北戦争が終結した後、南部の旧軍人が家族を連れてサンパウロに移住してきた。
 1866年のことである。サンパウロ州サンタバルバラドエステに入植した北米人は、ブラジル南部における綿作の先便をつけた。
 それまでにイギリス人のアルバートンという人物がサンパウロ州西南部の綿花栽培の可能性を調査し試験的栽培をしたといわれる。
 ブラジルの初めての綿の紡績工場は1869年サンパウロ州イツー市のサンルイス紡織(Fábrica São Luiz) であった。同じころ1867年幕末の日本では薩摩藩が機械織物工場を操業しており、歴史でいわれる同時性が見られる。
 19世紀後半からサンパウロ州の綿花栽培は新しい品種と栽培方法の改良が顕著であったが、その初期の担い手は米国からの移民であった。その綿花栽培の中心地はカンピーナス及びアメリカーナからサンパウロ州西南部に広がった。

1990年代、国産の繰綿機械

 この地区の綿作の繁栄は1980年代まで続いた。1950年代後半から日本の大手綿紡績、東洋紡・ユニチカ・日清紡がブラジル進出し工場を建設したのは、原料である綿花の古くからの生産中心地であるアメリカーナとイタぺチニンガであった。
 1887年に創立されたInstituto Agronomico de Campinas(IAC)の指導により品種の改良と栽培技術の革新が進められた。品質については1924年度のサンパウロ州綿の商品取引所の格付けによれば、生産綿花の43%が繊維長22~24ミリ、11%が24~26ミリと短繊維で綿紡績の原料としては下級品扱いであった。
 IACは米国よりExpresso種とTexas Big Ball 種を導入し、IACを頭文字とする改良種の配布を開始し、この改良種により南伯綿花の繊維長は28~31ミリに改良された。
 1929年の世界経済パニックを契機としてそれまで好景気を続けてきたコーヒー業界に深刻な状況をもたらした。その結果として大農場方式のコーヒー栽培の農場が小口分譲化されていく傾向になり、とくにリベイロン・プレト地域の農場の分譲化が顕著であった。コーヒーに代わる作物として綿花・玉蜀黍等の栽培が増加した。特に綿花は小中農地の主要作物となり、リベイロン・プレトに隣接したズモン市に1941年ジン工場が建設される等、新しい綿花産業の中心地となった。
 リベイロン・プレトからサンパウロ北部へ向かう州道330号線に沿うオルランジア、サンジョアキン、グアラー、イツベラーバにかけての肥沃な土壌に恵まれた広大な平坦地は、コーヒーが衰退したあと綿作が大規模に行われ、この地区の綿花黄金時代を築いた。
 この沿線に沿って多くの繰綿工場が設立され毎年綿花シーズンには活況を呈したものである。主なジン工場はアンダーソンクレイトン(2ケ工場)、サンブラ(2ケ工場)、サントアントニオ、マタラゾ、サルトベーロ、中野、デイエノ、ソマルゴ、サッシ、リオグランデ、峯、前田等で実綿集荷競合でしのぎを削っていた。

◎1910年代から日本移民も綿作開始

 コーヒー農場労働者として始まった日本からの移住者は、1910年代にはその活動はコーヒーが中心であったが、間作に米作を行ったり綿花の栽培をする者が現れ始めた。通訳5人男の一人である平野運平は平野植民地のグアタパラでは綿花を栽培させた。
 綿花は雨期が始まる10月に植え付け、6か月後の4月に収穫出来、比較的短期で換金性の高い作物であったので、年数のかかるコーヒーの収穫を待たず資金作りができた。当時欧州大戦の影響で綿花相場が高騰しており、収穫を待たず先売りして前渡金を得ることができた。
 平野運平はサンパウロで東京外語出身の滝沢仁三郎を通じて商社へ先売りしたと小説「森の夢」に書かれている。当時綿花の先物買いをした商社は米国系のアンダーソンクレイトンとかサンブラだったとおもわれる。
 また、香山六郎回想録によれば、香山は1915年ソロカバ線のモンソン植民地で当時めずらしい栽培物の綿花が植えられているのを見た。当時欧州大戦で相場は高騰しており実綿アローバ(15キロ)あたり22~23ミリであった。
 香山は3月に家族皆で綿摘みに行き、一日で3アローバ(45キロ)摘み取り、アローバ当たり2ミルの収入を得たとある。モンソンの綿花栽培熱は大戦中続き香山も半アルケール綿花を植えた。
 当時の綿花種子はカンピーナスIACの開発品種であり、1860年代に米国からの移住者の子孫も綿花栽培に従事し撒きつけ機を改良使用していたという(香山回想録)。
 このように日本からの移住者で、もともとコーヒー栽培のため奥地へ向かった農業者と、綿花の密接な関係は後々まで続いていく。
 南伯において大農式コーヒー栽培が衰退していったあと、中小農家による綿作は拡大していった。これはコーヒー危機のあとコーヒーに代わる作物の研究という動機もあるが、古くからのコーヒー大農場の分譲会社による農地の切り売りによる中小自作農の増加と、新しい農業活動を模索してさらに奥地へと向かう農業者を対象とした移住植民会社の活動が特筆される。
 1928年6月18日に日本人移住の集団地となったサンパウロ州西部のバストスにおいて、1929年の世界経済パニックのあとコーヒー相場が相場暴落し、さらに1931年ブラジル政府発布のコーヒー植え付制限により、コーヒーを主作物として農業経営の計画を立てていた植民者は大恐慌に陥った。 
 コーヒーに代わる作物については、陸稲・甘藷・煙草・養蚕・綿花等が研究されたが、養蚕と綿花が選択され、特に栽培が比較的簡易で換金性の早い綿花の栽培が急速に伸びた。
 綿花はもともと永年作物でなく短期作物であるから、移住者にとっては農地を購入し資金が固定するより、借地契約で農地を移動しながら未開拓の新地で表土が流出せず有機質が充分残っている土地を求めていく傾向が多かった。
 この傾向によりパウリスタ延長線ソロカバの各地に綿作を専業とする日本人借地農の集団地を形成する結果になった。
 バストス地区における綿作は霜害の恐れのないこと、投資資金が少なく回収迅速なること、植え付け面積当たりの収益が他の作物より勝っており、さらに当時相場が強気を示していたこともあって、綿花栽培は活況を呈した。
 バストスからランシャリアにかけて、ボトランチンは日本人綿作者の生産力に着眼して繰綿工場を建設した(1933年)。ブラ拓もバストスに繰綿工場を建設し、1934年から操業した。
 バストスの日本人移住地の綿花売上は全農業収入の64%を占めるに至り、綿花栽培面積は耕作地の56%を占めた。
 バストスの移住地は新興綿作地帯として発展する一方、綿作に好適な砂質土壌に恵まれたアルタソロカバナをはじめパウリスタ、アララクワラにも綿作を勃興せしめる機運をつくった。(つづく)

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