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ブラジルの藤田嗣治を語る=リオ社交界を魅了=ポルチナーリにも影響

3月7日(金)

 日本ではこのところ、画家藤田嗣治(一八八六―一九六八)への関心が高まっている。
 きっかけは、講談社から同時刊行された二冊の本―「藤田嗣治『異邦人』の生涯」、「藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色」―にあるようだ。大手新聞を始め多くの書評欄が取り上げたことが拍車をかけた。
 華麗な伝説に彩られたエコール・ド・パリの寵児。おカッパ頭、〃猫と裸婦〃の画家だ。戦中あまたの戦争画を描いたため、戦後日本を追われるように離れ、パリの土になった。その毀誉褒貶の多い人生が世間の耳目を誘う。
 そんな藤田が一九三一年から翌年にかけて、ブラジルに滞在したのは案外知られていない事実だろう。リオとサンパウロで開かれた個展を、当時ブラジルの社交界、文化人は熱狂をもって迎えたというが、さて――。
 偶然は時節を得て、先月二十七日、美術史家アラシィ・アマラル氏がサンパウロ日本文化センターで、「ブラジルのフジタ」をテーマに講演した。調査はまだ半ばらしく、不満の残る点もあったが収穫はあった。
 例えば、「フジナリ」なる言葉が生まれた、という下りなど。これは藤田とブラジル人画家カンジド・ポルチナーリ(一九〇三―一九六二)の師弟関係を指して使われた流行語だった、そうだ。 
 二人が互いの寝顔をデッサンし合うなど、親交を深めたのは確かだ。ポルチナーリは画布の準備から、線・色の使い方まで、藤田の影響を受けたとされる。後に国連の壁画を依頼されるまでになる、あの大家が、だ。 
 ところで、なぜ藤田はブラジルにまで来たのだろう。
 「パリで税務署といざこざがあったため。アメリカや南米、日本など各地で個展を開き、〃上がり〃で支払うことを目論んだ」とアマラル氏は指摘した。 
 この世界旅行に、藤田が連れ添ったのはマドレーヌだった。パリのダンサーで、その風貌から「女豹」の異名を取った女性だ。
 藤田はマドレーヌと知り合い、それまで婚姻関係にあったユキ夫人と離婚。旅立ちを前に、慰謝料として「ここにある絵はすべて売り払ってもかまわない」と告げて出た、というエピソードも興味深かった。
 藤田とマドレーヌ両人の風貌や気ままな振る舞いは、すぐさまブラジル社交界のうわさの的に。「バザー」誌には風刺画が掲載されるほどだった。 
 赤い髪した元踊り子のマドレーヌは言わずもがな、おカッパ頭にイヤリング、派手な服を着込んだ藤田。「リオの売春街にはキュロット、サンダル姿で行って、娼婦らの嘲笑を買った」とか。
 滞在中は「ビデに座るマドレーヌ」と題した絵も描いている。なんでも、熱湯に局部を刺激されたマドレーヌの叫び声を喜んで、絵筆を執った作品らしい。なにもかにもが、「日本人離れ」していた。
 だが、藤田を尊敬し慕ったのは一人ポルチナリだけではない。同じ齢だった詩人マヌエル・バンデイラなども、その魅力の虜となったことを告白している。
 肝心の絵画への評価が気になる。
 まず、アマラル氏によれば、「フジタはそれまでの外国人画家と違って、リオの美しさにそれほど関心することはなかった」そうだ。
 一応、個展のためにカーニバルや街の風景などを描いてみた。ただ、少なからず批判を受けた。
 「フジタはいつもフジタ。しかし、カーニバルの精神を分かってくれなかった」、「彼はブラジルの雰囲気をつかみ取れなかった。それは社会の現実、真実から離れてしまった絵」
 藤田の弁明も聞こう。「わたしが最も興味を引かれるものは人間。その曲線の美しさだ」。けだし、ブラジル滞在中に、ベッドの上で寝そべるマドレーヌを描いた絵などは絶品である。シーツのしわ一つを取って見ても、藤田のエスプリと卓越した技術がほとばしる。
 ユニークな評を寄せたのは詩人マリオ・デ・アンドラーデ。「そこには沈黙、そして無がある。素朴で簡潔な線・・・。彼は自分の作品に驚いている。西洋風の作品に東洋人としての自分が驚いている」などの見解を新聞紙上に発表している。
 ちなみに藤田の作品、「五コント」程度だったそうだが。いったいあの時代、いかほどの価値をもったものか。ときは世界恐慌、ゼツリオ・ヴァルガスの台頭、護憲革命……から間もないブラジルである。
 ブラジルを離れた藤田とマドレーヌはブエノスアイレス、コルドバと巡り、メキシコから、いよいよ日本行きの船に乗り込んだ。
 船中では――。ここでもスキャンダルに事欠かず。麻薬にはまったマドレーヌは食堂に真っ裸で出現し、乗客の度肝を抜いた、という。これにはさすがの藤田も手を焼いた。二人は日本に着くなり破局している。
 帰国した藤田にはブラジルで依頼された大仕事が待っていた。それは東京・銀座にあったブラジル珈琲院に設置するための壁画だった。
 「ブラジルの現実を掴めなかった」と揶揄された藤田。どんな絵を描いたか。「コーヒーの生産現場なのになぜか、熱帯雨林が出てくる図だった」。

 

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