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救済会60周年と憩の園55周年

数えきれない厚意に感謝=社会福祉法人救済会「憩の園」=会長 吉岡 黎明

ニッケイ新聞 2013年12月21日

 皆様。第2次大戦中、枢軸国側の日本が、ブラジルを含む連合国側と戦火を交えることとなって、多くの日本人移住者が移民収容所に収監され、寒さや飢えに喘ぎ、薬も与えられないで病人が多出しました。
外交官や政府関係者が引き揚げる中、宮腰千葉太氏だけがブラジルに留まり、日系人の救援に当りましたが、日本人故に多くを成し遂げることができませんでした。
そこで敬虔なカトリック教徒となっていた渡辺トミ・マルガリーダさんの伝手をもって当時のカトリック教会の司教だったドン・ジョゼ・ガスパール・デ・アフォンセッカ・エ・シルバ様にお願いし、収監されていた人達に必要な援助の手を差し伸べることが出来たのです。
このようにして1942年6月3日に「サンパウロ市カトリック日本人救済会」が誕生し、その後 1953年に司教様の名を冠して アシステンシア・ソシアル・ドン・ジョゼ・ガスパールと改名されました(日本名は社会福祉法人「救済会」)。それから60周年となります。
戦争が終結した後も、ドナ・マルガリーダやその協力者たちは引き続き困窮者や病人、高齢者に対する援助を続けました。この献身的な救済事業はカトリック教会によって高く認識され、評価されるところとなって、在伯サン・フランシスコ派修道院より現在の憩の園の土地10アルケールを戴くことになりました。
この土地は、救済会によって「憩の園—Jardim de Repouso Sao Francisco」 と命名され、今日に至っています。
それは1958年のことで、従って「憩の園」は今年 開園以来55周年に当たります。
ドナ・マルガリーダが先頭に立っての「憩の園」の休むことなき支援活動は、社会福祉のシンボルとして、ブラジル社会だけでなく日本からも高く評価され、多くの顕彰を受けました。
救済会運営の道程は困苦に満ちたものでしたが、ブラジルに援護協会が発足するに当たり、子供の園と、役割の分担を図り、救済会は高齢者福祉に専念することになりました。当時の旧移民のほとんどは農業従事者で、年金の支払いをしていなかったために、高齢になっても年金を受け取ることが出来ず、多くの者が貧困生活を強いられて居りました。
この60年の間、健常者棟、要支援者棟、特養ホーム等の施設が建設され、多目的用途の宮腰千葉太パヴィリオンも建築されました。
入園者の内容も変化しました。以前は60から70歳代の者が大部分でしたが、最近の入園希望のほとんどは80歳以上の高齢者です。
年が経つに従って、かつては深い緑に囲まれていましたが、今ではCDHUのアパート群と交通量の多い道路に囲まれて、「憩の園」だけは〃都会のオアシス〃のような環境になりました。
しかし、老朽化する施設の修繕・保全の維持費の他に、衛生局の新法令への対応や保安・治安設備の新設などの経費の増加に悩まされています。
このような状況下にあって、「憩の園」の支援団体の状況も変化しました。以前は数多くの企業、法人や個人が会員になって会を維持してきましたが、今日では法人会員も個人会員もその数が減少し、会を維持する財源の確保は理事会員の努力によって成し遂げられています。
この意味から、沢山のボランティアの皆様が、数多くのイベントに参加協力して下さり、会の維持に大きな貢献をして戴いていることに深く感謝の意を表します。  何百人ものボランティアによって「憩の園」のバザーは支えられ、新車の提供による抽選、「SUKIYAKI do BEM」「PROJETO ABRACO」「 Festa Junina da AABB」「歌謡祭」「手巻き祭り」「カラオケDAION」「4団体晩餐会」などの支援イベント、サコロン・サウーデ、サンタクルス病院、宮坂国人財団、 ロータリー・クラブ「ピニェイロス」/「アエロ・ポルト」、「憩の園在日協力会」など沢山の団体や個人の皆様から多くの支援をいただきました。
記念すべき節目の年ではありますが、理事会は邦字紙での特集をもって、慶祝行事に代えることにしました。どうかこの意をお酌みいただきたいと存じます。
心よりの御礼と、引き続き、相変わらずのご支援をお願い申し上げます。

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