ホーム | コラム | 特別寄稿 | ボサノーヴァは誰が作ったの?=稀代の奇人ジョアン・ジルベルトか=サンパウロ市在住  坂尾 英矩

ボサノーヴァは誰が作ったの?=稀代の奇人ジョアン・ジルベルトか=サンパウロ市在住  坂尾 英矩

ボサノーヴァ創世記に飲み歩いた音楽仲間たち

稀代の奇人ジョアン・ジルベルト(Starlight 13:01, 29 April 2006 (UTC)/Public domain)

 ブラジルの有名な奇人ミュージシャン、ジョアン・ジルベルトが昨年7月6日88歳で他界したニュースは、世界中の多くのマスコミで「ボサノーヴァの創始者」として大きく扱われました。中には「ブラジル音楽を改新して世界へ広めた功績者だから国葬にすべきだ」なんて書いた音楽評論家もありました。
 私は1950年代のボサノーヴァ創成期に、現地でミュージシャンたちと飲んだり、ジャムセッションで遊んだりした日本人の只一人の生き残りとして、その経験を書き残しておきたいと思います。
 私が渡伯した1956年前後は、ブラジル移住が再開して間もなくだったので、戦争で苦労した人たちが新天地で働く希望にあふれて大勢渡航しました。ですから現在のようにブラジル音楽を聴いて夜飲み歩くなんていう遊び人は殆どいなかったのです。
 それでも大都会に移住した音楽好きの人は、ライブ演奏を聴きたくなって夜になると飲みに出かけていました。当時は私のような安月給の青二才でもバーやコンサートにしばしば行けるくらい物価が安く貨幣価値があったのです。
 しかし、戦前移民の苦労した長老たちにとっては、戦後派移住青年が夜ピンガを飲んでキャバレーに出入りするなんて国辱的行動だったのです。当然の結果、私について神奈川県庁と横浜海外協会へ「こんな青年を移住させないでくれ」というクレームが送られてしまいました。ですが、後になってから横浜海外協会の澤地所長が「君はミュージシャンだから仕方ないよね」と笑っていました。
 考えてみれば、私がよく一緒に付き合ったボヘミアンは、ハワイアンバンド・ココナツアイランダースのリーダー寺部頼幸、バイブ奏者ジャズマン高橋晃、シックス・ジョーズのアルトサックス宮腰巴夫(元駐伯公使の子息)、喜劇女優丹下きよ子、そして商用で訪伯したUBCブラジル作曲家連盟の的場実在日代表などの皆さんは音楽関係者ばかりでした。

大戦後に米国の影響下となり音楽志向も変化

 第2次大戦後、世界中に米国の勢力が広まって、フランス文化一辺倒だったブラジルでも女学校の第一外国語がフランス語から英語に代わり、ハリウッド映画やレコードによって米国文化の影響を受けるようになりました。
 そのような過渡期に首都リオの音楽家や学生の間では、従来のポピュラー音楽、特にサンバに物足りず、新しいサウンドを求める雰囲気の中で生まれたのがボサノーヴァなのです。ですから特定の個人があみ出した産物ではありません。
 では何故、世界中に広まってヒットしたのでしょうか。先ず重要な点はサンバ・リズムのドラマーの叩き方が容易になったのが大きく影響したと思います。その上、モダンな和音とメロディーが斬新となり、北米の有名歌手やバンドマンたちが好んで演奏し始めたので国際的に広まったのです。
 時代的タイミングが良かったのもヒットの要素になったと思われます。当時アメリカのラテン音楽界を牛耳っていたキューバが、1959年カストロの革命によって米国との交流が途絶えたので、それに代わって音楽産業界では目新しいボサノーヴァが穴埋め的役割を果たしたのです。
 しかし、この「ブラジル音楽のヌーベルバーグ」と呼ばれたボサノーヴァの発案者がジョアン・ジルベルトであると命名されるようになったのは何故でしょうか。

世界で一番ボサノーヴァを愛好する日本

 芸能界には個性が強いエキセントリックな著名人が多いのは当たり前の話ですが、ジョアン・ジルベルトは常識では考えられないほどの変人なのに神様扱いされています。マスコミに報道された彼の奇行だけでも分厚い本になるくらいです。
 確かに日本でもジョアンのレコードを聴いてからボサノーヴァのファンになったという人が少なくありません。そしてソフトでおしゃれなBGM(バックグラウンド・ミュージック)として今でも愛好されている国は日本以外にないでしょう。本場ブラジルでは1960年代末には完全に消えてしまったのです。
 私の在外公館勤務時代に、日本の或る芸能プロ(通称呼び屋)からジョアンの日本公演計画について問い合わせがありました。私はその時「ジョアンの言動は何が起こるか予測できないからリスクがありますよ」と注意したら、「そこがよいのですよ」と言ったので、なるほど興行師はバクチ打ちだというのは当たっているなと感じたのが思い出されます。
 結局ジョアン・ジルベルト日本公演では、私が予言したとおり、ステージの途中で突然彼が動かなくなり、その場にいた友人の話によると40分近くも銅像のようになっていたそうです。それに対して本人の釈明もなくイベント関係者や観客も文句を言わなかったのですから、正に奇人の得だと言えるでしょう。

ジョビンやパウエルは何と言ったか?

アントニオ・カルロス・ジョビン、1965年頃(Brazilian National Archives/Public domain)

 1980年代中頃、私がブラジルの代表的作曲家トム・ジョビンの自宅を、日本のタンゴ歌手阿保(あぼ)郁夫氏と一緒に訪問した時、阿保氏が「日本ではジョアン・ジルベルトがボサノーヴァのクリエーターとされているが、あなたの意見は?」と質問したら、トムは「ボサノーヴァは誰が作り出したなんて言えるものではない。あの時代の雰囲気から生まれたんだよ」と答えたのが忘れられません。
 更に私は日本人ギタリストの間でファンが多いバーデン・パウエルに同じ質問をしたら、彼の回答は非常に分かりやすい面白い説明でした。

バーデン・パウエル、1971年頃(Philippe Baden Powell/Attribution)

 「あの頃の話はよく伝えられていない。ジョアンのメリットはね、モダン・サンバ歌手のソフトな歌い方とモダン・サンバ・ドラマーのビートをギターに乗せて合わせたパイオニアであることだ。つまりミルクとコーヒーをまぜて初めてミルクコーヒーを作ったのと同じだよ」
 サンパウロ州立音楽自由大学のギター教授オルミール・ストッカー先生にも私は聞いてみたら、「ジョアンは1950年代前半にモダンな弾き方で注目されていたギタリスト、ガロート(1915~1955)からヒントを得たのだろう。歌い方はチェット・ベイカー(米国のジャズ・トランぺッター)だよね」と言って笑いました。

どこまでがサンバ、どこからがボサノーヴァ?

1940年代、バイア州ジュアゼイロ市にて「エナモラードス・ド・リチモ」。左端がワルテル、右端でしゃがんでパンデイロを持っているのがジョアン・ジルベルト。まだ10代の頃。これはワルテル・サントス氏が坂尾氏に提供した秘蔵写真

 日本の音楽雑誌上で「メチャうまギター」などとほめられたジョアンに、モダンな和音の押さえ方を教えたのは、1940年代に彼の故郷バイア州ジュアゼイロ市で編成していたヴォーカル・バンドのメンバーだったワルテル・サントスなのです。
 1960年代にサンパウロへ移って以来、録音スタジオやレコード会社の経営で成功したワルテルが亡くなる直前に、私にもらした興味深い言葉があります。「ジュアゼイロ時代のジョアン・ジルベルトはギターの基本スリー・コードしか知らなくて、昔のボレロなどを声を張り上げて歌っていたんだよ」と。
 ではジョアン本人は何と言ったのでしょうか。ここで参考までに1989年7月下旬にジョアンがヨーロッパ公演した際、フランスのリベラシオン紙ドミニク・ドレイフェス記者がインタビューした一問一答を紹介しておきます。
▼ドミニク=「1958年のシェーガ・デ・サウダージ(想いあふれて)をきっかけにボサノーヴァが始まったと聞いていますが、実演を見て、あなたの演奏はまるっきりサンバだと感じました。本当はボサノーヴァなんてジャンルはないのではないかと思ったくらいですが、どうでしょうか?」
▼ジョアン=「その断定は重大だね。もし僕があんたに同意したら一大事になるだろう。あの頃、僕はジョビンの相棒ニュートン・メンドンサに『おい、ボサノーヴァって一体何だい?』と言ってやったんだ。そしたら彼はあわてて『そんなこと公表しないでくれ。我々のムーヴメントにもめごとを起こしたくないからね』と言ったから、それ以来口に出したことはない。だがね、あんたの言うのが正しいんだよ」
 議論はともかく、要するに超変人であるジョアン・ジルベルトが名声を保っているのは、彼の日常生活や頭の中には全く音楽だけしかなかったのがメリットになったのではないでしょうか。
 さて、ボサノーヴァも60歳を過ぎた現今、私は声を大にして言いたいことが一つあります。
 それは、キューバのカストロ首相がボサノーヴァ国外発展のバックアップとなった恩人ならば、「最近のブラジルにおけるボサノーヴァ・リバイバルの恩人は日本」なのですよ。

(※筆者は元サンパウロ総領事館広報文化担当)

image_print

こちらの記事もどうぞ