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特別寄稿=新型コロナ騒動とアマゾン移民史=往時のマラリア禍の心情を今に懐う=パラー州ベレン市在住 堤剛太

ロックダウンされたベレンの街路を消毒して回る衛生局の車(Marcelo Seabra/Ag. Pará)

 現在、パラー州では外出自粛処置が取られすでに3カか月目に入っている。私の住むベレン市では、病院施設がすでにパンク状態と発表され、4月下旬からはマスク無しでの外出は禁止になりまた。4月27日からは罰金を伴う営業活動の停止処置も取られ、5月7日からはベレン市を含めた10市でロックダウン(都市封鎖)が宣言された。
 集団感染の発生を何とか抑えようと、州や市当局も必死である。
 隣州のマナウスでは、森林火災並みの規模で感染者が増えておりこちらへ飛び火してこない様に、当局はかなり憂慮している。4月の半ばに、マナウスからベレンへ飛んできたアズール航空機がベレン空港への着陸を認められず、出発地のマナウスへと引き返していったケースもあった。
 筆者は、この自宅待機の機会を利用して長い間温めていた「アマゾン日本人移住の記録」の保存作業に取り組むことにした。具体的には、これまで長い年月を掛けて収集した資料類を整理まとめその後、執筆しようというのだ。
 この資料中には、先駆移住者へのインタビュー録音や古い新聞記事、手紙。アマゾン移民に関する外務省の評価記録等があり、筆者にとっては自慢のお宝類である。
 伝説の柔道王コンデ・コマさん、南米拓殖の福原八郎氏直筆の手紙もその中にあり、一級の資料類なのだ。
 中国で始まった新型コロナ騒動がやがてブラジルにも達し、そしてパラー州でも日々感染者が増え始めた3月、早々と州知事の外出自粛例が出された。

新型コロナの感染率どころの騒ぎではないトメアスーのマラリア禍

マラリア原虫を媒介するハマダラカ(Photo Credit: James Gathany/Public domain)

 その頃、筆者はふと思うことがあった。
 それは昔、アマゾン地方に入植した移民の人達が過酷な熱帯の気候下、待ち受けていたマラリア、アメーバ、黄熱病、象皮病、寄生虫類等の熱帯病・風土病の前になす術もなくバタバタと倒れて行った事に関して、その頃と現在の新型コロナ禍は似たような状況だったのだろうかと、考え込んだ。
 新型コロナへの感染者数が増加し続け現在では、罹患者を収容できる医療施設が無いに等しいとのベレン市長の苦渋の発表を聞くにつけ、開拓当初病に倒れても病院へ運ぶ事すらできず帰らぬ人となった多くの犠牲者の話しが重なってきた。
 アマゾン地方に、日本人移民が最初に入植した地トメアスー(旧アカラー)では昨年90周年の移住祭を実施した事は、ニッケイ紙などでも大きく取り上げられ読者の記憶にも新しいことであろう。

アカラ(トメアスー)病院の様子(『世界の宝庫アマゾン』藤井卓治著、サンパウロ新聞、1955年)

 実は、南米拓殖企業(鐘紡が母体)所有の60万ヘクタールに及ぶこの入植地は、後に悪性マラリアの巣となっているのだ。入植4年後の1933年1月に158人の罹病者を数え、その年の暮れには3065人にまで膨れ上がっている。
 この時期の入植者数が、2043人であったから一人で何回も罹病していた事になる。これは、新型コロナの感染率どころの騒ぎではない。
 アノフェレス蚊によって媒介されるマラリアの種類には、良性と悪性のものがありトメアスー植民地で戦前猛威を振るったのは悪性の方であった。
 この病気に罹患すると、治療薬として投与されたキニーネによって血液中の赤血球が崩壊され病人から当初赤い尿が出、次いでコーヒー状の黒褐色となることから「黒水熱(病)」と呼ばれている。移住者たちの間では「赤ションベン」で通っていたようだ。

何回も罹患、4人死亡する日も、77%が脱耕

 トメアスー入植地内での悪性マラリアでの死亡者は、多い日には4人。移住の年から、1934年までの5年間に死亡した者は、109人。内、2年未満の幼児が、38人(35%)と記録されている。角田房子の著書『アマゾンの歌』によれば、この悪性マラリアによる死亡者数は、当時の移民政策に水をさす結果となることから他の病名や事故死として記録された例が多かったようである。
 入植地内に蔓延する悪性マラリアに移住者たちは震え上がった。栽培作物が安定せず、将来性の見通しが立たないところへこの疫病の追い打ちである。恐怖心から、入植地を逃げ出す家族が相次ぎ1937年までにその数は、276家族1603人にも及んでいる。
 当時、同入植地には352家族2104人が入植していたが、77%もの脱耕率で、入植地に残ったのは僅か76家族501人であった。

空手の猛者、町田さんも自宅待機

 筆者は、血圧が高く、またリスクの高い年齢層に属しているという事で感染が恐く、極力家から出ないようにしている。ブラジルでの死亡率は、今のところ8%程度のこの新型コロナを前にしてである。
 しかし、当時の入植者たちは食べて行くために死と隣り合わせの耕地へ働きに出てゆかねば成らなかったのだ。恐慌をきたし、入植地を逃げ出す人々の気持ちが今では身に染みてわかる心境である。
 余談になるが、ベレンでの感染者がまだ一桁台であった3月の半ば、空手師範の町田さんから携帯に電話が入った。要件は、JICAボランティア派遣についての相談であった。
 そこで筆者が、「町田さん、申請書類等もありますから詳細を日伯事務所で説明しましょう。いつ頃来られますか」と訊ねた。すると答えは、意外なものだった。
 「堤さん、悪いけど今、家から外へ出てないのよ。息子たちが危ないから出ちゃいかんと言うしね」
 この町田さんからの思ってもいなかった返事に、驚いてしまった。と、言うのはその時期まで筆者は、まだ気楽にあちこち外へ出ていたからであった。
 あの岩の塊の様に頑丈で、新型コロナ等吹っ飛ばすイメージの町田さんが用心し、外出自粛していたのだ。筆者は、改めて事の重大さを悟りその日から町田さんに見習った訳である。

戦後のマラリア禍でも40%罹患

 トメアスーを脱出した人たちが目指した先は、サンパウロ地方であった。ベレン市内に、北伯日系社会の拠点である汎アマゾニア日伯協会が在るが同組織では、10年前から県連の好意でサンパウロの日本祭りへブースを出している。
 筆者も毎年、同行しているがパラー州ベレンからやってきたと分かると、昔トメアスーに住んでいたという方の家族が良く日伯協会のブースを訪れてきた。
 これらの方達のほとんどは、戦前、戦後と2度に亘って入植地内に蔓延したマラリアで、サンパウロ方面へと脱耕していかれた人達の関係者である。
 前記のように、トメアスーでのマラリア禍は戦後の1962年にも発生している。その年の3月の調査で、40%の日系人が罹患していることが判明している。
 この為に、移住地内にマラリア防遏(ぼうあつ)対策委員会(防止と同じ意)が設置されている。
 マラリアの特効薬は、人工キニーネのクロロキン(chloroquine)だ。この薬が、新型コロナの治癒に有効だと脚光を浴び、ブラジルでは治療薬に採用されている。
 新型コロナビールスに対する特効薬は今のところなく、その人の体力や免疫力が、治癒の大きな要素と言われている。開拓当初の移住者たちは、栄養価の低い食事しか摂る事ができず、熱帯の炎天下で長時間働いていた。こんな体力のない身では、悪性マラリアの毒牙にはひとたまりもなかっただろう。
 トメアスー移住地では、1967年6月黄熱病で日系青年が死亡している。この折には、黄熱病予防ワクチンを日系人、地域住民1万人が接種した他、ベレン市内でもワクチンの接種が実施された記録がある。
 その成果で、黄熱病の犠牲者はそれ以上出なかった。どんな危険な病気でも、ワクチンさえ開発されていればこんなものである。
 アマゾン地方での開拓人生は、熱帯病や風土病との死と隣り合わせの戦いでもあった。

移住地という無医村

アマゾン流域で巡回診療をする神田錬蔵(とうぞう)医師(『アマゾン河』、中公新書、1963年)

 日本人入植地への医師による巡回診療が始まったのは、1958年(昭和33)12月からであった。アマゾナス州パリンチンス地方のジュータ栽培農家へ1955年に移住してきた、名古屋大学医学部卒の神田錬蔵(とうぞう)医師が海協連の委託を受けてこの事業に携わっている。
 もともと、寄生虫などの研究が目的で移住してきた様だ。移住後、アマゾナス州政府より医師、薬剤師の開業許可を得てパリンチンスから川船で更に奥地の町バレリーニャで診療所を開設していた。医師が不足していた時代だから、そういう特例も有ったのだろう。
 神田医師は、1961年に日本へ帰国し東洋医大(現聖マリアンナ医科大)教授の職に就き、日本での寄生虫研究の第一人者になっている。
 神田医師の著書『アマゾン河』(中央公論)を読むと、この時の巡回診療のいきさつが書かれてある。
 「1958年11月、海協連のF氏からいままでおこなったことがないので、アマゾンの日本人入植地をぜひ巡回診療してほしいといってきた。=略=。ところがこの依頼には具体的な条件がなにも示されていない。
 私はアマゾナス州政府からの開業許可はとっているが、これは他の州には適用しない。また薬品その他の費用はどうなるのかもはっきりしない。
 問い合わせたところ、費用については予算がない、診療に関するいっさいはあなたの責任においてやってくれという返事であった。

エフィジェニオ・デ・サーレス移住地に向かった第一次入植者(1958年9月10日、ベレン沖、『天園』、同自治会、50年史刊行委員会)

 こういう無責任なことで医者を巡回させるのは、まったくひどいが、情報によると、マナウスの郊外エフェニジオ・ソアレス(注・正確にはエフィジェニオ・デ・サーレス)に11月に入植した人たちが集団下痢にかかっていて、はやく日本人の医者をまわしてくれといっているという。
 =略=翌朝ジープを雇って、50キロほどの区間アスファルトに舗装されたばかりの国道を走った。途中、向こうからきたジープと出会い話をきくと、ひとり死にかかっているから大至急来てくれというのである。
 ジープを急がせて行ったが、その50歳くらいの老婦人はすでに死亡していてまにあわなかった。つい今しがた息をひきとったばかりだという。この老婦人は心臓弁膜症があり、そこへマラリアと赤痢の併発をまねいたものらしかった。
 この、エフィジェニオ・デ・サーレス移住地はアマゾナス州の州都マナウスから22Km~54Kmに掛けて、州政府が造成した移住地である。野菜、米などの生鮮食料品をマナウスへ供給する基地として計画されたものであった。現在は、養鶏業が盛んでマナウスの鶏卵市場の40%近くをこの移住地が供給しているという。
 移住地が開設されたのは、1958年11月で亡くなった婦人は、第一次の入植メンバーで日本から到着後僅か、1か月目に夫と5人の子供たちを残し49歳の若さで他界されていた。神田医師が、同移住地まで診療にやってくるというニュースを耳にし家族はその到着を待っていたのだ。

エフィジェニオ・デ・サーレス移住地。大木を倒す、安田氏の耕地(『天園』)

マラリア全戸、アメーバ赤痢と続々と

 2010年に発刊された同移住地の50周年記念誌『天園』を見ると、残された子供たちはその後立派に成長し、マナウスの町に健在の様子で何となく安堵する思いであった。入植当時の移住地の衛生事情について、同移住地の江藤氏がこう記している。
 「この地で、これから先、自分の永住の地として農業に従事して妻子を養い、果たして平和な家庭を築くことが出来るであろうかと、不安な想いに悄然となったのであります。
 時折来る、はげしいスコールに目を見張り、夜はガリーバの遠吠えや、夜鳥の奇声に驚かされたことも、一度や二度ではありません。
 収容所に入所して4、5日も過ぎると、アメーバ赤痢に二人、三人と倒れ、十日、二十日と経ては、マラリア病が全戸を襲う有様でした。
 =略=然し、私達は身を焼く暑さにも打ち克ち、病魔を退け、延々として捗らぬ開拓に、来る日もくる日も、開墾と耕作に明け暮れる毎日を過ごしたのであります。」(『天園・歩み20年の譜』)。
 神田医師は、移住者たちに川水を飲料水に使う事をやめさせ、井戸を掘りその井戸水を飲むことを指示している。
 この後、リオ・ブランコ直轄州(現ローライマ州)へと足を延ばし、州都ボア・ヴィスタから90KM地点に在るタイアーノ移住地を訪れている。
 この地では、30人の入植者中40%に当たる12人がマラリアで寝込んでいたという。神田医師の巡回診療は、1961年3月の日本帰国直前まで続き、その後、サンパウロの日系医療機関「同仁会」に所属する細江静男医師(慶応大学医学部出身)や木原暢(ちょう)医師へとバトンタッチされている。
 海協連では、一連の巡回診療の報告により予想以上に移住地内に熱帯病・風土病が蔓延している事を知り、本格的にアマゾン地方日系人の医療衛生面のサポートを実施する事となった。

知られざるアマゾニア日伯援護協会発足の経緯

先端の設備を揃えるアマゾニア病院の病室(アマゾニア日伯援護協会サイト)

 巡回診療開始から4年後の1962年に、日伯協会(汎アマゾニア日伯協会)施設の一角を借り受け、「ベレン実費診療所」を設けたのだ。法的な問題から、名義は日伯協会となった。
 そして、アマゾン地方の巡回診療に携わっていたサンパウロ州リンス居住の今田求医師(北大医学部出身)を招き、ベレン診療所に常駐させている。北伯の日系人は、日本語で診察ができる診療所の誕生をどれだけ心強く思ったであろう。
 トメアスー移住地での、戦後のマラリア禍は丁度、今田医師の着任した年に発生し同医師は、トメアスーへ出張しこの対策に当たっている。
 この時の、小さなベレン実費診療所がやがて現在のアマゾニア病院へと発展することになるのだ。
 1965年1月、アマゾニア病院を運営するアマゾニア日伯援護協会(創立時は、アマゾニア日本移民援護協会)が設立された。実は、設立当初サンパウロの細江静男医師の提唱で、ベレンに「サンパウロ日本移民援護協会ベレン支部」を発足させる計画案が出されていたのだ。
 現在のサンパウロ日伯援護協会の前身で、1959年1月に発足しており州内や奥地日系移住地への巡回診療や実費診療所の運営を行っていた。同協会ベレン支部設置の計画案は1961年7月、ベレン総領事館別室を会場に催された汎アマゾニア日伯協会定例理事会の議題として具体的に話し合われている。
 「細江ドクター主唱の移民援護協会は、会費1千クルゼイロスにて理事は勿論当協会会員が入会しては、との提案が江村理事よりあり、一同賛成。日伯会館建設完了の上はその支部を当地に置き、無料診察の便を図られたい旨の希望有り一同賛成。」(『パンアマゾニア誌』28号)。
 これで、ベレン市内にサンパウロ日本移民援護協会の支部が発足する事になったかと思いきや、1963年同援護協会の中沢源一郎会長より辻小太郎日伯協会会長宛てに手紙が届いた。
 「サンパウロ市の援護協会がアマゾンまで手を延ばし活動を行う事は到底不可能につき、アマゾンは別個に同様の組織を新たに組織して貰いたい。ポルトアレグレ、レシフェも同様に援護協会を作り、その後、フェデラソン式のものを組織し、お互いに協力したい」
 中沢会長のこの意向を契機に、当地ベレンでは独自の援護協会を組織することが決定したという経緯があったのだ。アマゾニア日伯援護協会誕生に当たっての、こんないきさつを知る人はもう誰もいないであろう。
 アイデアマンの細江静男医師は、この援協支部の話の他にも、ベレン=ブラジリア街道沿いの州有地に北海道の別海村から、170家族の日本人移民を導入する計画案を1961年にぶち上げている。
 ある時、この移住計画案を知った筆者は、古い移住者の方達、特に北海道出身者複数に問い合わせたことがあるが、誰もそんな話を知る人はいなかった。そこで、北海道別海町郷土資料館まで直接問い合わせてみた。
 資料館側の回答は「その頃、冷害や台風が別海村を襲い凶作で村を離れてブラジルへと移住した人達は居た」というが、集団でアマゾン地方へ行った記録は無いとの事で有った。
 別海村は、この当時2000戸ほどの開拓村であったが、現在は人口1万5千人ほどの町となっている。しかし、岐阜県出身の細江医師がどうして北海道の別海村を名指しで移住計画を立てたのかは、未だに謎の残るところである。

アマゾニア病院の日系医師も複数が感染

 新型コロナウイルス騒動から、アマゾン開拓当時の日本人移民達の熱帯病との命を懸けた熾烈な戦いに思いを馳せ、少々脈路のない話を書いてしまった。
 マラリア、デング熱、黄熱病、アメーバ赤痢、寄生虫、中には毒蛇による犠牲者も出ている。これら、幾多の困難を乗り越えてきた、先人の勇気と忍耐に学び筆者もこのコロナ禍を強い気持ちで耐え忍んでゆくつもりである。
 とは言え、今朝の生田勇治医師からの電話によれば、アマゾニア病院の日系医師も数人が感染し病院へ入院しているとの話を耳にするや、途端に気持ちが揺らぎ怖くなってしまった。
 これといった治療薬はまだ無く、自身の体力や免疫力を高めることが今は一番大切だと言われている。また、ストレスが逆に、体の免疫力を低下させるらしい。
 ここ1~2カ月間、朝から晩まで、新型コロナの情報(中には偽情報も)ばかり聞いて暮らしているので、筆者は大分ストレスが高じ、折角高めたと思った免疫力が下回ってきたようである。
 これからは、必要最小限度の情報だけに絞り残りは、楽しいテレビ番組やビデオ鑑賞、読書などで一日を過ごし、幸せホルモン・セロトニンを増やして行こうと思っている。

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