ホーム | コラム | 特別寄稿 | 自分史寄稿=「移り来て六十年」=サンパウロ市在住 村上佳和

自分史寄稿=「移り来て六十年」=サンパウロ市在住 村上佳和

 戦前移民19万人、戦後移民6万人とか7万人と言われる。日系190万人、海外最大の日系社会である。1957年から1962年の5年間が戦後移住者のピークで、1964年の東京オリンピックを機に日本は高度経済成長期に入って移住者が激減し、新しく移住してくる人が途切れて50年。戦後青年移住として一番多勢のコチア青年2500名、今では平均年齢83歳である。
 私は1960年3月に高校を卒業して、4月2日に神戸を出航の大阪商船サントス丸で同船者700余名と共にブラジルへ移住したのです。

エンブー市の羽多野農場で、コーベ・フロールを出荷するトラックの前で村上さん

 移住事業団とブラジル広島県人会扱いで移住し、コチア青年と共にコチア組合員の農家に配耕された。サンパウロ近郊のエンブー郡。その後、波多野さんがサンミゲル・アルカンジョのピニャール植民地に土地を買い、先発隊としてコチア青年の先輩と共に5人で井戸を掘り、小屋を建て山開きをして初めのコーベ・フロールの植付けしました。

羽多野農場でトラクターを運転する、20歳ぐらいの村上さん

 1962年、コチア組合で波多野さんがコーベの出荷量が一番でした。私がブラジルへ来て2年、農業で独立する考えであったが先輩や周りの人達が零細借地農で独立するのを見て、これでは目鼻が付く迄に10年、15年はすぐ過ぎると思い4年契約だった波多野農場を2年で辞職しました。
 そして、県人会の紹介でパラナ州北西部の原始林がどんどん開拓され、景気のいい開拓前線の街、マリンガ市の農産物仲買商へ就職、ブラジル人に混じって袋担ぎから始まり、商業の道に入ったのである。
 1年程過ぎ、マリンガ市から160キロ程の奥地カンピーナ・ダ・ラゴアに支店を開ける事になり、日系二世で商業学校を出た先輩が3人居たが誰も山の中に行くことを嫌がり、結局支店長として私が行くことになった。
 一応、ブラジル中学予備校は卒業していたが、まだポルトガル語も満足に話せぬ私が支店長を任された。

羽多野農場時代、休みの日にはよく馬を乗り回した

 小型トラックであちこちの農場を周り、豆、米、とうもろこしを買い集め、8トン車のトラックに荷が出来れば本店へ出荷するのである。雨が降ればジープも走らぬ泥んこ、陽が照ればものすごい土埃、有名な赤土テーラ・ロッシャ、ピストルを鞄に突っ込んで買付に走り回ったものだ。全くの西部劇、違うのは馬車とトラックが違うだけ。鉄砲はかなりうまかったと思う。
 パラナ州は100キロ毎に大きな街を作る計画で開拓された。当時、カスカベルの街は中央通り一本だけ、石畳が敷かれており店が2、30軒もあっただろうか。シュラスカリア(焼肉店)が一軒あった。
 今は大きな美しい街になり、誰がこんな大きな街を想像したであろうか。あの頃、市街予定地に投資していれば20年くらいですごい事になっていただろう。あれだけのパラナ州西部の大原始林がわずか20年程で見渡す限りのとうもろこし、大豆、小麦畑となり、人間の力の凄さを感じる。
 原始林を人力だけでどんどん切り倒し、7月、8月の乾期にあちこちの農場で山焼きが行われ、一カ月くらい来る日も来る日も山焼きの煙りで太陽が黄色く霞んでいた。
 山焼きは周りから一気に火を入れると「ゴーッ」と台風のように中央へと火と風が吸い寄せられ、火と煙が天空に舞い上がり、それはそれは勇敢なものでした。
 1年ほどしたら本店へ帰って来いとの事で、急に独立しろと言われても給料のほとんどを鉄砲等に使い金は無かった。

マリンガーの野崎商会のコーヒー豆倉庫で、村上さんと同僚のマヌエルさん

 パトロンの野崎さんが銀行で手形の裏書きをして資金を作ってくださった。時の東山銀行マリンガ支店長は左近様でした。パトロンの隣に穀物を入れる麻袋の店を開けた。
 北パラナが1961年、62年と2年続けて大霜であれだけのコーヒー樹がほぼ全滅。当時、ブラジルのコーヒー生産量は世界の60%、そのうちの40%は北パラナで生産していた。
 そのコーヒー園にとうもろこし、豆、米を植えたため、穀物が大洪水に。麻袋が足らなくて、そのたびにサンパウロに行った。サンタローザ街あたりに使用した袋を改修する大きな袋問屋が数軒有り、そこで1万5千から2万袋と買い付けて持って帰っても売れて売れて、どうしてこんなに儲かるのか不思議なくらいであった。
 独立して初めての仕事で運良くまとまった資金を手にした。マリンガ西本願寺青年会副会長、日本人会にも参加。新来青年もなかなかやるではないかと言われた。
 このときは成功したが、サンパウロに出て来て仕事に失敗して借金を抱えて丸裸。しかし「あぶくのように儲かった金、あぶくのように消えた金。またすぐ挽回したるわい」と考え、あまり苦にならなかった。これが長年かかって築いた物を失ったら、そのショックが大きく再起の気力を失ったかも知れない。家内が日本から来て、長女誕生6カ月くらいの時であった。
 その頃、リベルダーデ区ガルボン・ブエノ街あたりで新来青年と二世グループが抗争。新聞で大きく報じられ、不名誉なニュースと言えば新来青年という一時期があった。
 しかし、5年・10年のあと、コチア青年、開発青年隊、工業技術移住者の皆さんが頭角を表し、戦後移民も信用され、日系社会やブラジル国に貢献したのである。
 今は一世は老齢となり、3万人程と言われる。後10数年で一世はほとんど消えるだろう。

2016年、左から二人目が妻ことじさん、岸田外務大臣(当時)、村上さん(訪日中、東京広島県人会70周年祈念懇談会で)

 私も80歳。特に悪いところは無く健康だ。25歳で広島県人会の理事になり、戦後移民で最年少。戦前移民の役員さんが山賊のように思えたものだ。
 戦前移民でじゃがいも作りの成金のおっさんが「今日の役員会は青柳(ジャバクアラ区にあった料亭)でやろう。わしのおごりじゃ」というような元気のいい理事さんもいた。
 あれから55年。一期も外れることも無く、理事を続けているが、今では最年長。一世役員はわずかで、二世、三世が主だ。
 新しく移住して来る人がいなくなり、ブラジル日系190万人といわれるが、ブラジル人口の1%にも満たない日系。混血もますます進み、後50年もすればブラジル社会に埋没し、純血日系人はいなくなるだろう。
 ブラジルに何を残すべきか、今、考えなければならない。(終)

image_print