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2009年

「アマゾンの歌」を歩く=(10)=農協理事長、市議も

ニッケイ新聞 2009年7月31日付け  胡椒景気を迎えたトメアスーの生活は一変した。移民の多くは家を新築、それは〃ピメンタ御殿〃と呼ばれた。  いっさい装飾を省いた長方形の総二階に、学校の寄宿舎のように同じ形の窓が等間隔に並ぶ山田の家にも、彼の質実な性格が現れていた。雨季明けの五月、開拓時代の犠牲者二百七十人の供養のため、トメ ...

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「アマゾンの歌」を歩く=(9)=〃黒いダイヤ〃ブーム到来

ニッケイ新聞 2009年7月29日付け  マラリアが蔓延し始めた一九三三年、南拓社員の臼井牧之助(女優小山明子の実父)は、第十三回アカラ移民を引率し、神戸から、はわい丸に乗り込んだ。 船内での死亡者を火葬にするため、シンガポールで下船したおり、胡椒の苗を二十株購入する。 五年経っても、永年作物を見出せない植民地で試作するつもりだ ...

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「アマゾンの歌」を歩く=(8)=戦時中は日本人収容所に

ニッケイ新聞 2009年7月28日付け  一九四一年十二月、日本軍の真珠湾攻撃により、アメリカとの戦争が始まった。伝えられる各地での日本軍の華々しい戦果。マラリアや困窮生活が長く続き、行く末への果てしない不安を抱いていたトメアスーの人々は愛国心を掻き立てられ、狂喜した。 精米小屋にいた元さんは、戦争当時の様子をよく覚えていない。 ...

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「アマゾンの歌」を歩く=(7)=母の急死、密林での出産

ニッケイ新聞 2009年7月25日付け  精米所で働いていた頃、元さんは結婚する。妻となったのは、今村豊江さん(〇七年に七九歳で死去)。結婚披露宴は、一九四六年五月だった。  「かわいそうな娘じゃないか。生まれたばかりの時にブラジルに連れてこられて、身よりもない所で、みなし児になってしまった。 なあ、元…お前の嫁にして、みんなで ...

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第12回=日本発=ブラジル人学校の教育現場から=髙野祥子

2009年7月25日付け  二〇〇八年秋以降続く経済危機により、在日ブラジル人の多くが失業することとなった。政府の帰国支援策により三万人が帰国したといわれている。自費で帰国している人もいるため、実際にどのくらいの人たちが帰国しているのかはわからない。学齢期の子どもたちの実数も把握しきれていない。 義務教育就学年齢にあるブラジル人 ...

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「アマゾンの歌」を歩く=(6)=記憶辿り、水車小屋へ

ニッケイ新聞 2009年7月24日付け  働き詰めの毎日を一家は送った。その間にも次男允、和子と昭(赤痢で死去、享年一)が誕生、スエノさんは育児と雑事に追われた。  ある日、水車小屋で精米が遅れているにも関わらず、義一さんは請け負い仕事の必要があった。重労働が家長の肩にのしかかり、働き手の少なさを実感していた。 「父さんが帰らな ...

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「アマゾンの歌」を歩く=(5)=足に残る開拓の苦労

ニッケイ新聞 2009年7月23日付け  入植当時、七歳だった姉三江、二歳の元さんを抱えた山田家の労働力は、義一、スエノさんだけだった。  開拓に加え、育児や家事も切り盛りしたスエノさんの苦労は、「小さかったですから、当初のことは覚えておりません」と話す元さんの足に残っている。  日本人の多くは足が歪んで―いわゆるO脚―いるが、 ...

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「アマゾンの歌」を歩く=(4)=野菜普及への〃挑戦〃

ニッケイ新聞 2009年7月18日付け  移民たちはただ命をつなぐことだけを目的に、働き続けていた。彼らの皮膚は内部から熱に責められ、外部から赤道直下の太陽に焼かれて、どす黒く濁った色に変わっていた。野菜組合の用事などでベレン市に出ると、街の人々は「アカラの人だ」と、すぐに見分けた。〃マラリア色〃〃アカラ色〃と呼ばれる顔色になっ ...

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日伯論談=第11回=ブラジル発=島袋レダ=両国政府に対する日系社会からの提案

2009年7月18日付け  デカセギ現象は、日伯間における労働需要と所得の橋渡しをするメカニズムとなっており、多くの人に良い結果をもたらしている。  しかしながら、日系社会の歴史において以前に経験したことのないレベルで、アイデンティティーや自信、自己評価の喪失といった重大な影響を感じている。懸念するのは、今後の世代に不安定な基盤 ...

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「アマゾンの歌」を歩く=(3)=猛威ふるうマラリア禍

ニッケイ新聞 2009年7月17日付け  かつて〃陸の孤島〃と呼ばれたトメアスーに至る交通網は川だった。ベレンまでの道路が貫通するまで、この港が植民地と外界を繋いでいた。  「南拓の事務所があってね。日本人の経営する食堂や商店もあって、かなり賑わっていましたよ」。しかし、車で案内役を務めてくれたトメアスー文協の松崎純事務局長(3 ...

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