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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲

『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(20)

1925年6月28日、移民船「河内丸」は神戸港を出航。東シナ海を過ぎてシンガポール港に停泊。7月17日、同港で記念撮影。父・兼松(33)、母・こみよ(32)、長女・静子(14)、武雄(9)、兼子(3)(『綿作王 松原武雄』より)

8歳で農作業  少年は、日本では小学校に通っていたが、ブーグレでは、学校には殆ど行かず、カフェザールで働いた。もっとも当時、移民の子はたとえ8歳でも、そういうケースが多かった。 ファゼンダでは日本、ロシア、イタリア、ポーランドからの移民数百家族が就労していた。労働は厳しかった。夜明け前に鐘の音が響く。起床の合図である。眠い眼をこ ...

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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(19)

しかし、匙を投げる 安瀬は、その頃、自身のカフェザールを四カ所経営していた。樹数は計85万本だったというから、この業界でも大手だったわけだ。そのカフェザールの経営力は世間から高く評価され、ブーグレの再生に関しても期待されていた。 ところが牛窪著によると、この安瀬も霜に破れ去ったという。ブーグレは1959、1963、1967、19 ...

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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(18)

 そのうち、「親戚の安瀬盛次に、店を継がせては……」という声が上がった。 安瀬は以前、数カ月、この店を手伝ったことがあり、債権者の一人が覚えていたのである。「鈍重、牛の如し」と評されたが、鋭い閃きを見せることもあった。真面目で働き者でもあった。推薦者は、そこを見込んだのである。 この店主が夜逃げをしたアルマゼンを継ぐという話、凡 ...

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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(17)

 「(冬のある日)底冷えのする寒さとなった。原始林に沈む夕陽が真っ赤だった。空は澄み切っていた。霜の前触れだった。山も畏怖する様に鳴りをひそめた。 霜! 人々は恐怖に脅えた。朝、全山が白銀に包まれていた。真っ赤な朝日が原始林から昇り、中天にかかり、落ちて行く頃には、昨日まで青々としていたカフェーの葉は、褐色に萎え、カラカラに枯れ ...

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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(16)

農業─商業―加工業の流れを形成 長期的に見た場合、開発前線の日系社会の産業は、農業が本流であった。が、そこから枝分かれして商業という支流が形成された。その形成者がアルマゼン、特に仲買に力を入れた人々である。彼らの中で力をつけた者は、さらに農産物の加工業にまで進出した。 この動きを把握すると、経済面から見た──産業組合以外の──歴 ...

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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(15)

1927年の上野一家(『上野米蔵伝』より)

 1926年、北パラナ日本人会が設立された。米蔵は副会長に選ばれ、翌年、北パラナ連合日本人会と改称した時、会長になった。30歳を少し越したばかりであった。 「北パラナに上野米蔵あり」と、サンパウロ州の邦人社会にまで知れ渡った。会長職は、以後、なんと32年間も務めることになる。 しかし、アルマゼンの仕事は、何故、そんなに調子良く行 ...

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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(14)=アルマゼンとは?

上野家が住んだバルボーザ耕地のコロノ長屋(『上野米蔵伝』より)

 さて、そのアルマゼンであるが──。 今日、アルマゼンといっても、ピンと来ない人が多いだろうが、開発前線の歴史を咀嚼するためには、看過できない存在である。当時の資料類の中では「雑貨商」と訳されている。筆者は、初めてこの文字を見た時、昔、日本の町や村にあった細々(こまごま)とした雑貨を商う小さな店を思い出した。 お婆さんが店番をし ...

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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(13)

上野米蔵さん(『上野米蔵伝』より)

 1916年、福太郎の招きで、その親戚の上野米蔵一家がやってきた。同じ年、サンパウロ市の東洋移民会社の社員がブーグレを視察、翌年、若狭丸移民15家族を配耕した。以後も続いた。1932年の調査資料では、ブーグレの日本人労務者は、58家族となっている。 ちなみに、右の上野福太郎は大きく儲けて日本へ帰国し、移民の目的を果たした。当時の ...

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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(12)

 バルボーザは息子たちと土地販売会社を設立、実際に売り始めた。やがて日本人が、その一部を買うことになる。 この鉄道会社の譲渡交渉で、両者の仲介をしたのが、メスキッタであった。交渉成立で彼には手数料が入ったが、少年時代からの夢であった建設工事を請け負うことは、残念ながら出来なかった。新経営陣がロンドンの業者を選んだからである。彼は ...

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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(11)

英国資本、参入 1923年末、時の大統領に招かれた英国の経済使節団が、この国を訪れた。メンバーの中にロード・ロバト(LORD LOVAT)卿がいた。男爵であり、51歳だった。卿は英国の一流会社スーダン・プランテーションズのオーナーの一人であった。 同社はアフリカのスーダンで棉を栽培、英国へ輸入、紡績業界に供給していた。その紡績業 ...

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