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怨念が生んだ新政権の背景探る=29年目のジンクスは当たるか=ジャニオ、コーロル、ボウソナロ

ボウソナロ氏(Rogério Melo/PR)

ボウソナロ氏(Rogério Melo/PR)

 「なぜ、そんな兆しさえなかったブラジルで、極右政権が誕生したのか」と問われたとしたら、「ルサンチマン(積もり積もった怨念)」と「ブラジル選挙の29年のジンクス」の2つが起こした〃時代的な化学反応〃を理由にあげる。この二つの事象は、いかにして窓際下院議員、陸軍予備役少佐、ジャイール・ボウソナロ氏を大統領へと導いたのだろうか。


PT栄華の時代に既に影

 記者がブラジルに来たのが2010年。ニッケイ新聞に入社したのが2011年だったが、この頃の伯国と言えば、まだ労働者党(PT)政権の栄華の真っ只中だった。2010年まで8年続いたルーラ政権をついだジウマ氏は、米国のタイム誌で「世界の影響力のある女性」で5位以内に入るほど注目され、国内での支持率も7割近かった。当時、国内総生産(GDP)はイギリスを抜いて6位になったこともあった。
 この頃、記者は聖市在住の、主に高齢の知人に伯国の勢いの良さを、挨拶のリップ・サービスで誉めようとしたことがあったが、ほとんどの人が一様に「それほどでも」と苦虫をつぶしたような表情だったのを覚えている。「随分と自己評価が低いんだな」と当時不思議に思った。
 今振り返るに、当時から聖州では、うっすらとPTへの不満が溜まりつつあったのではないかと思う。2010年の選挙で、同州がジウマ氏より対抗馬のジョゼ・セーラ氏(民主社会党・PSDB)に多く票を投じていたことでも、それは後付で確認できる。


それはコンフェデ杯ではじまった

2013年に頻発したデモ(Zeca Ribeiro/Câmara dos Deputados)

2013年に頻発したデモ(Zeca Ribeiro/Câmara dos Deputados)

 「ルサンチマン」の最初の爆発が起こったのは2013年6月だ。サッカーのW杯の予行演習的な大会「コンフェデレーションズ杯」が行なわれたときだった。
 PT政権は2003年から続く同政権の栄華を2014年のサッカーW杯、16年のリオ五輪という国際的二大スポーツ・イベントと共に大団円でまとめようと試みていたが、結果的にこれが裏目に出た。
 「何がPTの栄華だ。〈豊かさ〉なんてこれっぽっちも感じないぞ」という欲求不満が、聖市でのバス料金のわずかな値上げと共にはじまり、そこで軍警がデモ参加の女性を負傷させてしまったことで感情的に拡大。これはコンフェデ杯の期間中、全国規模でずっと続く抗議活動となった。
 抗議活動そのものに疎い日本で育った記者には、社会への不満をストレートに抗議できる姿は当初、好意的に映った。だが、同時にすぐに強烈な違和感も覚えた。
 そのデモに参加している人のどこにも「本当に生活に困窮している人たち」の姿がなかったからだ。参加しているのは、どう見ても中流から上の国民ばかり。「これは一体どういうこと?」と当時不思議に思ったし、それは「いまのブラジルはバブルのはずなのに」と思っていた国際世論もそうだった。
 同時期にトルコでも、後に圧制で有名になるエルドアン大統領の治世への反対デモが起こっていたが、あれとも明らかに異質だった。その答えがわかるまでには5年かかることになる。


ジウマ罷免で浮上した右翼精神

2016年、ジウマ大統領の下院での罷免審議の際のボウソナロ氏(Nilson Bastian/Câmara dos Deputados)

2016年、ジウマ大統領の下院での罷免審議の際のボウソナロ氏(Nilson Bastian/Câmara dos Deputados)

 そして翌2014年の大統領選挙を前に、ペトロブラスを舞台にした大規模汚職を摘発する「ラヴァ・ジャット作戦」が始まった。この時に13年のデモ参加派は「反PT派」の期待をアエシオ・ネーヴェス氏(PSDB)に託そうとしたが結果は惜敗。
 だが、このときに対抗候補の追い上げを焦ったPTが、政見放送や地方のキャンペーンでどぎつい批判をやりすぎてしまった。そのため「ルサンチマン」がアエシオ氏や支持者の中で増幅してしまった。
 そして翌15年にラヴァ・ジャットに関与した与党の政治家の顔が具体的に割れ、同作戦での社会的損害もあり、景気が一気にマイナスに傾くとジウマ氏の退陣を求める声が強くなり、遂に16年4月、ジウマ氏は下院で「大統領罷免」の判断を出された。
 このときに「2度目の違和感」を感じた。
 ひとつは、ジウマ氏の罷免時に、多くの支持者が「これはクーデターだ」と騒いだ。特に芸能関係者にそれが多く、大物歌手カエターノ・ヴェローゾにいたっては「これは(軍政のはじまった)1964年と同じ陰謀だ」と煽っていた。「汚職をしたから政権を追われようとしているのに、なんでそれがクーデターなのだ」と、その大げさな反応に記者は困惑した。
 だが、さらなる違和感は下院でのジウマ氏の罷免投票の際に沸きあがった。この日の野党側の議員に、なんとブラジル国旗を身にまとった議員や、投票の演説で「家族」の名前や「愛国心」を示した議院の多かったことか。
 「別にそんなものは汚職追及には必要ないだろう」と思いながら中継を見ていたが、それを最も象徴した人物こそが当時下院議員だったボウソナロ氏その人だった。
 同氏は罷免票を投じる際、「ウストラ大佐にこの票を捧げる」と宣言した。軍政時代に最も政治犯に拷問した、あの時代の「負の象徴」とされていた人の名をあげた。とりわけPTは軍政時代の政治犯出身が多かったから、同大佐の存在はタブーだった。
 この発言は物議を醸し、マスコミにも強く批判された。だが、この発言からボウソナロ氏の知名度が上がって行った。


アエシオ失脚後、「ルサンチマン」の象徴に

 そして記者が3度目の違和感を受けたのは17年4月頃だ。食品大手JBS社社主のジョエズレイ・バチスタ氏が罠にかけようとして誘った贈賄を、アエシオ氏が無防備に受けてしまい、それが録音されて公表されてしまったからだ。
 これで「次の大統領選で有力」とされていたアエシオ氏は完全失墜した。アエシオ氏支持者はこの件でPT支持者や左派からもからかいの対象となった。それが「俺たちに恥をかかせやがって」とPSDBに対してのルサンチマンへと変わった。
 彼らのほとんどが、その代わりとして白羽の矢を立てた人物がボウソナロ氏だ。以後の世論調査では、脆弱な政治実績にもかかわらず、トップ争いを演じるようになっていた。
 彼らは、ボウソナロ氏が経歴上「汚職捜査をされたことがない」ことと、「軍隊出身」だから悪化する治安の改善に適任という2点で選んだ。その間、マスコミは「28年の議員生活で通した法案が3つ」「大統領候補になりたくても相手にされずに党移籍を繰り返す」「軍政への執着心が極めて強い」「女性やLGBT、黒人、先住民に差別発言を次々と行なった」などと報道するも支持率には全く響かなかった。
 それどころか、新自由主義経済のシカゴ学派、パウロ・ゲデス氏が将来の財相候補となるや、サラリーマン層の支持も強固にしてしまった。そして、ボウソナロ氏がPTを厳しく批判すればするほどその支持は拡大し、いつしか「救世主」とさえ呼ばれるようになっていた。
 いまから振り返るに、ボウソナロ氏がこれだけの強い支持を得たのは、本人が、有権者と同様に強いルサンチマンを抱えた男だったからだろう。軍出身のボウソナロ氏にとっては、1985年の軍政終了以降、軍が社会から冷ややかに見られていたことが不満だった。かつての政治犯が中心となったPT政権時に、軍が悪者扱いにもなっていたから、その嫌悪感情はイデオロギーを超えて大きくなっていたことは想像に難くない。
 ただ記者が感じた違和感は、つい数年前までPT政権でポリティカル・コレクト(社会的弱者への是正)に取り組んでいたはずの国民が、マイノリティが排除される危険性を持った候補を熱烈に支持したことだ。
 だが5年前の「コンフェデレーションズ杯」の時のことを思いだし、「そういうことか」と合点が行った。白人や富裕層にとって、PT政権は決してありがたい存在ではなかったのか、と。「たまたま景気が良かったから支持していたけど、そうじゃなきゃ、元々自分たちには不利な存在」ということだったのではないか。
 ボウソナロ氏ほど極端ではないにせよ、政府がマイノリティや基本的人権を保障しなくなっても平気な程度には、有権者の中に潜在的な差別主義的心理はあった―ということなのだろうか。
 もっとも18年3月、ファヴェーラ出身の黒人同性愛者のリオ市議マリエーレ・フランコ氏が銃殺され、マスコミが彼女を「貧民から生まれた人権闘士」と賞賛した際、主にボウソナロ氏の支持者からネット上で彼女の名誉を毀損する行動が起こり、「伯国では毎日人が亡くなっているのに、こういう人ばかりとりあげる」と妬みをネットに書きちらし、未亡人に嫌がらせを今日まで繰り返し、さらにはリオ市議会前にできた彼女の名を刻んだ通りのナンバープレートを破壊する行為まで行なわれている。
 こういうのを見ていると「PT時代に理想とされたような人物像が、本心ではかように妬ましかったのか」と思わざるを得ない。


伯国政界の「29年のジンクス」

 ボウソナロ政権は、2013年からつもりにつもった、保守的感情を長らく眠らせていた国民たちの怒りによって生まれたもの。そうした論を展開してきたが、これは図らずも、伯国政界の歴史の「29年のジンクス」にまんま当てはまってもいるのだ。


討論会に出なかったコーロル

1992年のフェルナンド・コーロル氏(Elza Fiuza/ABr)

1992年のフェルナンド・コーロル氏(Elza Fiuza/ABr)

 では、29年前に何が起きたか。それはコーロル政権の誕生だ。1989年当時、伯国は、民政復帰後の初の大統領となったジョゼ・サルネイ氏の大失政で1000%台のインフレに苦しんでいた。それを、民政復帰後にはじめて行なわれる大統領選(サルネイ氏は議会選による大統領選で当選したタンクレード・ネーヴェス氏の副候補)で「救世主」的存在を求めていた。そこで選ばれたのがコーロルだった。
 同氏は少数政党から出馬し、当時40歳の若さと甘いマスク、「国の救世主」イメージで選挙キャンペーンを行ない、選挙期間中の討論会に出ないことで、先行したイメージを守る戦略をとり、これが見事に成功した。
 この「討論会に出ない」という戦略は、「暴漢に刺される」という予期せぬ事態はあったものの、ボウソナロ氏が今回の選挙で終始とり続けたもの。これでかねてから「弱い」とされていた討論や、反感を呼びそうな保守的な政策を隠せて得をした、と見る向きが多い。もっとも刺傷事件前から、ボウソナロ氏は「コーロル戦略に倣うのではないか」とも噂されていた。
 だが、このコーロル政権は国の経済状況をさらに悪化させた挙句、就任3年目の92年、収賄容疑が浮上。同氏は罷免の憂き目にあった。


バブル時代崩壊の救世に大失敗したジャニオ

ジャニオ氏(Public Domain)

ジャニオ氏(Public Domain)

 そして、さらにコーロル政権の誕生の29年前の1960年には、同じく小政党からジャニオ・クアドロス氏が当選を果たした。
 この当時はサッカーではペレ、音楽ではボサノバが生まれ、国の国際知名度をあげていた頃で、今日までの人気大統領のジュゼリーノ・クビチェック氏の治世だった。同氏は首都をリオからブラジリアに移し、名建築家オスカー・ニーマイヤー氏による、芸術性の高い政治庁舎も作りあげた。
 だが、この首都移転に伴い、巨額の金銭ばらまきを行なったことで汚職の横行と経済が暴落という、最近どこかで聞いたことのあるような状況を招いていた。
 そこで「汚職撲滅の救世主」を標榜して出てきたのがジャニオ氏で、その戦略が功を奏し、43歳の若さで当選した。その前の10年を聖州州議、聖市市長、聖州知事と急な出世での大統領就任だった。
 だが、それが裏目に出た。就任から7カ月の60年8月、ジャニオ氏はキューバ革命の中心人物の一人、チェ・ゲバラ氏が伯国に立ち寄った際に南十字星勲章を授与したが、これが大問題となった。
 ジャニオ氏は当時、「親米派だったクビチェック氏と違う路線を」と考え、米ソ対立の中間を行く存在になろうとし、それでキューバをあえて敵視せずにこのような行動に出た。だが、まだ伯国内でキューバを恐れている人が多かった中でのこの行動は同氏への誤解を招いた。
 この批判に耐えられなくなったジャニオ氏は翌8月に突如辞任。そしてこの退陣が連邦政府の弱体化を進め、国民が副大統領から昇格した左派ジョアン・グラール氏に対して「伯国をキューバにしてしまうのでは」というパニックが起こってしまった結果、64年3月31日の軍事クーデターを呼び込む導火線となった。
 悲しいかな、伯国の場合、国民が「新しい政治勢力を」と政界で無名だった人を急に大統領に選んだときの結果は良くない。今回の選挙もこの例にあてはまる可能性がある。
 過去2回との共通点があり、さらにそれが同じ「29年の周期」でやってきているのが不気味なところだ。果たしてボウソナロ氏は、この連鎖から逃れることができるか。(沢田太陽記者)

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