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日系職人尽くし―ブラジル社会の匠たち―(5)=「手に職付ければ、お天道様とおまんまは向こうからやってくる」=七十の手習いで表具師

11月13日(木)

 「表装の仕事をしているのは、ブラジルで俺一人しかいねぇんじゃないか」といなせに語るのは佐々木克さん(八二)。表装の仕事を始めたのは一九九二年からだ。七十歳からの手習いとは恐れ入る。これまで、六回日本を訪れ、師匠たちに技術を習ったという。本職は、木工職人でこの道七十年の超ベテランだ。

日本へ一時帰国

 二六年、当時五歳でハワイ丸にのって家族とともに、ミランドポリス第一アリアンサに配耕された。十歳の時、子の教育を思った父に、日本に返されることになる。郷里長野県の軽井沢付近で叔父、叔母の世話になり、尋常小学校を卒業。当時女工四千人を雇っていた叔父は、佐々木さんに千葉の高等園芸に進むように進言するも、最初の関門、中学受験に失敗。「頭が良かったため、受からなかった」と笑いながら答える。器用だった手先を生かして木工学校に入学し卒業した。十八歳で卒業後は東京、芝の福安工務店に住みこみの小僧として入社。当時愛宕にあったNHKが渋谷に移る際の内装もひき受ける大手の工務店だった。

弓場での出会い

 四〇年、戦争の危機を感じた父がブラジルから呼び寄せ、弓場農場に入った。養鶏場を持つ弓場で、十四年間ほど孵卵機を作りつづけた。
 弓場で出会った間部学画伯と親交は深く、弓場が危機に陥った際には、リンスにある間部宅を尋ねた。「間部学、半田知雄、玉木勇治、高岡由也などの聖美会(サンパウロ美術研究会)とは額を通じた交流があった」と懐かしそうに語る。現在でも間部画伯の絵が居間に飾られ、「間部は…」と呼び捨てにするところに親交の深さがうかがえる。
 間部画伯の弟と共に木工会社を作りサンパウロに進出、二十五人の従業員を抱える企業に成長した。コロニアが盛んだった頃のリベルダーデの料亭、料理屋などあらゆる内装を請負い、稼いだ金は全て散財した。

手に職つければ

 「表装の仕事は、それまでやってきた職人が亡くなったことがきっかけ」と語る。表装の材料は木材以外、日本から購入し、日本にで向いた際に買い揃える。「熟練を必要とするのは、糊付けするとき。しわが寄らないように、和紙が破れないようにするのが難しい」と明かす。価格は小さいもので百二十レアル、標準サイズで二百五十レアル前後が目安だ。
 表装のほかに屏風もこなす。木の枠組を作り、和紙をはり、その上から布を貼る。手順だけなら、その仕事は容易に感じるが、屏風の蝶番(ちょうつがい)は三六〇度回転し屏風を繋げる高度な技術だ。「木の枠組に関しては、長く務めてきた和額の仕事から容易にこなせる」とのこと。
 「弓場の姪っ子が、表装を習いたいと頼んできている」と嬉しそうに語る。後継者不足に悩む職人が多い中、佐々木さんにその悩みはない。「手に職付ければ、お天道様とおまんまは向こうからやってくる」。博国と日本で七十年、この言葉を地で行く職人に出会った。(佐伯祐二記者)

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