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日系職人尽くし―ブラジル社会の匠たち―(7)=空手6段、人形は師範=大柄な体で繊細な作業

11月19日(水)

 サンパウロ市サウーデ区マウロ街の塩田健康センター所長、塩田憲一さん(五六、神奈川県出身)。一九七四年、二十七歳の時に渡伯した理由の一つが、「日本人形を普及するため」だった。七五年に主婦と生活社が発行した写真集、過去二十年間の人形作家二百十八人の作品を集めた『現代日本人形作家全集』(人形美術協会編)で、自作『宮本武蔵』が紹介されるほどの技術の持ち主。空手六段、一七六センチで八三キロの大柄な体からは想像もできない。

日本人形に魅せられて

 「有名なのは桜人形、木目込人形、押絵人形、紙人形。高級なものは木屑を練り合わせて作る彫塑人形でしょ。それから…」。
 日本人形について質問すると、一晩中語り続けてしまいそうな勢いの塩田さん。牛乳販売店を経営していたが、配達で訪れた人形作家、小林公子氏(六九)の自宅に並ぶ日本人形を見て、一瞬で虜になった。小林氏に弟子入りし、六八年、東京人形学院短大科に入学、二年間、みっちりと人形作りのいろはを学んだ。また、一級師範を、通常十年かかるところ、わずか五年で取得した。
 「世界に人形を普及させたい」。
 七三年、塩田さんはブラジル、アメリカ、カナダ、ハワイを視察した。「アメリカは国が出来過ぎているし、カナダは人口が少ない。ブラジルは日系コロニア、人口とも多い」。塩田さんは翌七四年、牛乳販売店をたたみ、単身、ブラジルに降り立った。

情熱あればこそ

 来伯してからの日本人形普及は苦労の連続だった。日本人形の材料は大量輸入ができず、郵便で小刻みに材料を仕入れた。すると、何度も本局に呼び出され税金を払わされた。材料費と授業料の折り合いはついていなかった。
 それでも、リオ、ブラジリア、バストス、マリンガ、遠くはアルゼンチンまで人形作りを教えに飛んだ。これまでに育てた師範は五十人、生徒総数は二千人にのぼるという。しかし、日本から持ってきた資金は底を尽き、副業で教えていた空手の収入に頼っていたが、三年後には大赤字に転じた。塩田さんは、「飛んでいけば、赤字だと分かっていたのに止められなかった」と語る。
 また、教えるだけではなく、一日一体の割合で人形を作り、リベルダーデの土産物屋に卸した。しかし、「クリスマスの時ぐらいしか売れなかった」と、塩田さんは今でも残念そうだ。

還暦後、再び―

 家計が火の車となった塩田さんは、その頃、むさし野健康センター院長の林義貢氏に見込まれ、カイロプラクティックを学び始めた。リベルダーデに診療所を開設、お金を少しずつ貯めて、十年前、塩田健康センターを開業した。
 「昔は日本人形が本業、空手が副業だった。いまはカイロプラクティック、三針法が主体で日本人形は開店休業状態」。ただ、日本人形への愛情がなくなったわけではない。「六十歳になったら、健康センターを娘婿に移行して、日本人形作りに専念したい」と意気込みも新ただ。
 「日本人形はね、作ると自分の娘みたいになって、本当に可愛いんですよ」。小箱から人形を取り出しながら、塩田さんは、「気持ちが乗り移るような感じかな。心が洗われる。完成した時の喜びが最高ですよ」と目を細めた。
(門脇さおり記者)

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