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日系職人尽くし―ブラジル社会の匠たち―(3)=〃開かずの金庫〃に挑戦=サッカー場で満場の拍手

11月11日(火)

 茂木安太郎さん(七一)は、「Medico dos cofres(金庫の医者)」の肩書きを自らにつける金庫技師だ。特殊なドライバーを用いて金庫の微かな音を聞き、右手の親指と人差し指で引っ掛かりを探す。その姿は、聴診器を手にし、患者と向かい合う医者のようだ。「今まで、一万六千の金庫を開け、今でも三日に一回は仕事」とまだまだ現役の様子だ。

ゴム園からスタート

 茂木さんは、二十二歳の一九五四年十二月二十一日に神戸港をブラジル丸で出港、翌年一月二十一日にベレンに到着、ベルテーラゴム園に一月から八月まで過ごす。その後、リオ・ネグロを遡りユダヤ系コーヒー農園を開拓、マナウスでもタクシー運転手として働いた。六一年にはトメアスに移住、妻セツ子さんと出会い、六八年には、サンパウロ市に移り住み、セー広場に鍵屋を開いた。
 金庫を開ける技術は、日本の佐川金庫産業(株)(現(株)サガワ)で覚えた。創立者で親類の中村吉さんに五年間指導を受け、同社の一級技術修得証明書を持つ。当時から、外務省や宮内庁、皇室などでも仕事をこなしていた。「当時、大卒の事務員が月給三千円だったが、二十二歳で二倍の六千円を手にしていた」と振り返る。

セニョール茂木!

 金庫空けの名手として、茂木さんの名を一躍有名にしたのは七〇年五月、ミナス州財務局の半地下に眠る〃開かずの金庫〃での成功だ。鎮座する金庫は、高さ一メートル九十三センチ、幅一メートル二十センチ、扉幅三十五センチの厚さで、九〇年近くの歴史を持つ。二十三時間に及ぶ挑戦で金庫を開錠、飲まず食わずのため四キロも体重を落とした。賞金目当てに集まってきた五十二人の錠前屋職人たちを退けた日本人に、マスコミや州政府は敬意を持って祝福した。
 イタチアイア対アトレチコで満員に膨れ上がったミネイロン競技場の十五分間のハーフタイム、「彼が開かずの金庫を開けたセニョール茂木だ!」と紹介され満員の拍手を受けた。日本人としての責任を感じ、がんばりとおした二十三時間が思い出された。茂木さんは、頬を涙でぬらした。
 七一年にはアンドラウスビルの火災で焼け焦げた金庫開錠に成功、八三年には〃サッカーの神様〃ペレの金庫も開けた。「密かに訪ねてきたペレだが、帰る頃にはどう言うわけか外側に黒山の人だかりが出来ていた」と思い出す。
 「金庫を開ける技術はところてんを押し出す技術のように、容易に教えられない。勘の必要な世界で、二人の息子も長男がダイヤルを得意とし、次男が錠前を得意としている」と、その極意を聞き出すのは難しい。

ブラジルに感謝

 茂木さん宅には、畳の間がある。「孫や息子が日本に行った時に恥をかかないように作った」と明かす。「日本人としてブラジルに恥じないように仕事し生活をする」「日本人としての責任で金庫を開けた」と日本を意識する移民の心情が熱く伝わる。
 現在、自分史の製作に取り組んでいる。「移民政策は棄民政策だった。しかし、私はこのブラジルに感謝している。群馬にいたら、小さくまとまってしまったかも知れないからね」とはにかみながら笑った。

(佐伯祐二記者)

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